簡公_(鄭)
[Wikipedia|▼Menu]

簡公 姫嘉

公(周制による爵位は伯)
王朝鄭
在位期間
紀元前566年 - 紀元前530年
都城新鄭
姓・諱姫嘉
諡号簡公
生年紀元前570年
没年紀元前530年
釐公

簡公(かんこう、紀元前570年 - 紀元前530年)は、春秋時代の君主。姓は姫、名は嘉。の二大国のあいだで翻弄され、国内の内紛に苦しめられたが、治世の後半は子産の執政のもとに国内を安定させた。
生涯

釐公の子として生まれた。紀元前566年宰相の子駟(公子?)が釐公を殺害し、5歳の簡公を国君に擁立した[1]

紀元前565年、晋の悼公の高厚・の季孫宿(季武子)・の向戌・のィ殖(ィ恵子)らと?丘で会合した。この年、楚の子嚢(公子貞)の侵攻を受けて鄭は屈服した[2]紀元前564年、鄭は楚についたことを晋に咎められ、晋・魯・宋・衛・・斉の連合軍の攻撃を受け、敗れて晋に屈服し、晋を中心とする諸侯と戯で同盟した。この年のうちに楚の侵攻を受けて、また楚に屈服した[3]紀元前563年、楚に従って宋や衛や魯に侵攻した。晋・斉・魯・宋・衛・曹などの連合軍が鄭を攻撃した。鄭の尉止・司臣・侯晋・堵女父・子師僕らが子駟を殺して反乱を起こした。子産や子?(公孫?)がこの反乱を鎮圧し、子孔(公子嘉)が鄭の政権を掌握した[4]紀元前562年、晋・斉・魯・宋・衛・曹などの連合軍が鄭を攻撃した。鄭の城は包囲され、鄭は講和を求めた。亳の城北で晋を中心とする諸侯の同盟が結ばれた。楚がと結んで鄭を攻撃しようとしたが、鄭が再び屈服したため、楚と鄭の軍が宋を攻撃した。晋・斉・魯・宋・衛・曹などの連合軍が再び鄭を攻撃した。鄭は晋に屈服し、簡公は晋を中心とする諸侯と蕭魚で会合した[5]

紀元前559年、晋を中心とした連合軍に鄭軍を参加させ、秦を攻撃した[6]紀元前557年、簡公は晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・曹の成公らと?梁で会合した。晋の荀偃(中行偃)・魯の叔老・衛のィ殖らとともにを攻撃した[7]紀元前555年、簡公は晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・曹の成公らと魯済で会合し、ともに斉に侵攻した。楚の子庚(公子午)が軍を率いて鄭に侵攻してきた。鄭の子孔は楚につこうとしたが、子展(公孫舎之)と子西(公孫夏)に妨げられて、その機会を持てなかった。楚軍は凍死者を多数出して撤退した[8]

紀元前554年、子孔がその専横を憎まれ、子展と子西の攻撃を受けて殺害された。子展と子西が鄭の政権を掌握し、子産が卿に上った[9]

紀元前553年、簡公は晋の平公・斉の荘公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公らと?淵で盟を結んだ[10]紀元前552年、簡公は晋の平公・斉の荘公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公らと商任で会合した[11]紀元前551年、簡公は晋の平公・斉の荘公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公らと沙随で会合した[12]紀元前549年、簡公は晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・曹の武公らと夷儀で会合した。楚・・許の連合軍が鄭を攻撃した。夷儀に参集した諸侯は鄭を救援した[13]紀元前548年、簡公は晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・曹の武公らと夷儀で会合した。晋を中心とする諸侯の連合軍が斉に侵入した。公孫夏に軍を率いて陳を攻撃させた[14]

紀元前547年、楚軍が鄭に侵入し、城?に達した。鄭の皇頡は城を出て楚軍と戦ったが、敗れて穿封戌に捕らえられた。楚・の連合軍が鄭を攻撃した。楚軍は南里に入って鄭の城壁を破壊し、鄭の師之梁門を攻撃した[15]

紀元前546年、諸侯の大夫が宋で盟約を結び、晋・楚の対立関係の解消が謳われた[16]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:14 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef