簡公 姫嘉
鄭
公(周制による爵位は伯)
王朝鄭
在位期間紀元前566年 - 紀元前530年
都城新鄭
姓・諱姫嘉
諡号簡公
生年紀元前570年
没年紀元前530年
父釐公
簡公(かんこう、紀元前570年 - 紀元前530年)は、春秋時代の鄭の君主。姓は姫、名は嘉。晋と楚の二大国のあいだで翻弄され、国内の内紛に苦しめられたが、治世の後半は子産の執政のもとに国内を安定させた。
生涯(公子?)が釐公を殺害し、5歳の簡公を国君に擁立した[1]。
紀元前559年、晋を中心とした連合軍に鄭軍を参加させ、秦を攻撃した[6]。紀元前557年、簡公は晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・曹の成公らと?梁で会合した。晋の荀偃(中行偃)・魯の叔老・衛のィ殖らとともに許を攻撃した[7]。紀元前555年、簡公は晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・曹の成公らと魯済で会合し、ともに斉に侵攻した。楚の子庚(公子午)が軍を率いて鄭に侵攻してきた。鄭の子孔は楚につこうとしたが、子展(公孫舎之)と子西(公孫夏)に妨げられて、その機会を持てなかった。楚軍は凍死者を多数出して撤退した[8]。
紀元前554年、子孔がその専横を憎まれ、子展と子西の攻撃を受けて殺害された。子展と子西が鄭の政権を掌握し、子産が卿に上った[9]。
紀元前553年、簡公は晋の平公・斉の荘公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公らと?淵で盟を結んだ[10]。紀元前552年、簡公は晋の平公・斉の荘公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公らと商任で会合した[11]。紀元前551年、簡公は晋の平公・斉の荘公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公らと沙随で会合した[12]。紀元前549年、簡公は晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・曹の武公らと夷儀で会合した。楚・蔡・陳・許の連合軍が鄭を攻撃した。夷儀に参集した諸侯は鄭を救援した[13]。紀元前548年、簡公は晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・曹の武公らと夷儀で会合した。晋を中心とする諸侯の連合軍が斉に侵入した。公孫夏に軍を率いて陳を攻撃させた[14]。
紀元前547年、楚軍が鄭に侵入し、城?に達した。鄭の皇頡は城を出て楚軍と戦ったが、敗れて穿封戌に捕らえられた。楚・蔡・陳の連合軍が鄭を攻撃した。楚軍は南里に入って鄭の城壁を破壊し、鄭の師之梁門を攻撃した[15]。
紀元前546年、諸侯の大夫が宋で盟約を結び、晋・楚の対立関係の解消が謳われた[16]。