簡公_(斉)
簡公 姜壬
斉
公(周制における爵位は侯)
王朝斉
在位期間前485年 - 前481年
姓・諱姜壬
諡号簡公
没年前481年
父悼公
簡公(かんこう、? - 紀元前481年)は、春秋時代の斉の君主。姓は姜、諱は壬。
生涯斉の悼公の子として生まれた[1]。父とともに魯に亡命していたとき、?止
(中国語版
)を気に入り、近づけるようになった[2]。紀元前485年3月、悼公が殺害された。呉王夫差が水軍を率いて斉を攻撃したが、斉軍はこれを撃退した。晋の趙鞅が軍を率いて斉を攻撃し、犁と轅を奪い、高唐の城郭を破壊し、頼まで進軍して凱旋した[3]。斉の人々は壬(簡公)を斉の国君として擁立した[4]。紀元前484年春、簡公は国書(中国語版)に命じて魯に侵攻し、清に達した。魯は呉と結んで反攻し、5月に博を攻め落とし、?に達した。斉軍は呉軍と艾陵で会戦して大敗し、国書・公孫夏・閭丘明らが捕らえられた[5]。ときに簡公が?止を執政に任用したので、田恒(田成子)は?止を恐れはばかった。簡公の御者の田鞅は田氏と?氏は並び立たないので、どちらかを排除するようにと進言したが、簡公は聞き入れなかった。紀元前481年5月、田恒が起兵して?止を攻め殺し、簡公は舒で田恒に捕らえられた。6月、簡公は舒で田恒に殺害された[2]。
脚注^ 『史記』斉太公世家による。『史記集解』は徐広を引いて「年表は簡公壬が景公の子であるという」と記すが、現行本の『史記』十二諸侯年表は簡公は悼公の子としている。
^ a b 『春秋左氏伝』哀公14年
^ 『春秋左氏伝』哀公10年
^ 『史記』斉太公世家
^ 『春秋左氏伝』哀公11年
表
話
編
歴
姜斉の公(前485年 - 前481年)
呂尚(太公望)前1021?-前1000
丁公前999-?
乙公
癸公
哀公?-前863
胡公前862-前860
献公前859-前851
武公前850-前825
詞前824-前816
文公前815-前804
成公前803-前795
荘公贖前794-前731
釐公前730-前698
襄公前697-前686
公孫無知前685
桓公前685-前643
斉侯無詭前643
孝公前642-前633
昭公前632-前613
斉君舎前613
懿公前612-前609
恵公前608-前599
頃公前599-前582
霊公前581-前554
荘公光前553-前548
景公前547-前490
晏孺子荼前489
悼公前488-前485
簡公前484-前481
平公前480-前456
宣公前455-前405
康公前404-前379
Category:斉の君主
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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