篠山紀信
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篠山 紀信
2015年、静岡県立美術館での自身の作品展にて
本名.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}篠山(しのやま) 紀信(みちのぶ)
国籍 日本
出身地 日本東京府東京市淀橋区柏木
(現:東京都新宿区北新宿
生年月日 (1940-12-03) 1940年12月3日
没年月日 (2024-01-04) 2024年1月4日(83歳没)
日本東京都
最終学歴日本大学芸術学部写真学科
東京綜合写真専門学校
事務所ライトパブリシティ
同期沢渡朔
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篠山 紀信(しのやま きしん、1940年昭和15年〉12月3日 - 2024年令和6年〉1月4日)は、日本写真家東京市淀橋区柏木(現:東京都新宿区北新宿)出身。本名は紀信(みちのぶ)。
来歴
生い立ち

東京都新宿区にある真言宗豊山派円照寺住職・篠山明信の次男。1944年、篠山が4歳の時のときに、父が戦死している。

新宿区立淀橋第四小学校を経て、私立芝中学校・高等学校に入学。高校時代まで生家の円照寺で過ごす[1]
大学時代

特に写真が好きではなかったが、一般大学の受験に失敗したため、衝動的に日本大学芸術学部写真学科に出願し入学[2][注釈 1]。日本大学芸術学部写真学科の同期である写真家沢渡朔からはおシノと呼ばれていた[3][4]

写真学科に入った以上は写真家になろうと決心し、日大と併行して東京綜合写真専門学校にも通学。在学中より新進写真家として頭角を現す。東京綜合写真専門学校を2年で卒業した後、日大在学中の1961年に広告写真家協会展APA賞を受賞した。

同年、広告制作会社ライトパブリシティに就職した[5]。この面接にあたりハッタリをかますため、当時非常に高価だったハッセルブラッド500Cリンホフを両肩に提げて持参した……という逸話がある[6]
写真家として

1966年東京国立近代美術館の「現代写真の10人」展に最年少で参加[5]1976年にはヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館に代表作家として選ばれる[5]。初期の作品には『Death Valley』『Twins』『Nude』など傑作が多い。ジョン・レノンの生前のラストアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット撮影は篠山の作品である。

その作品数の多さ、ジャンルの多様さはヌードから歌舞伎まで他の写真家を遥かに凌ぐ。1973年、デビューからのキャロルを激写し、キャロル売り出しに貢献[7][8]。同年『女形玉三郎展』で芸術選奨新人賞受賞。1975年に雑誌『GORO』で歌手の山口百恵特集で使い始めた「激写」は流行語になり[1][9]、その後の中森明菜芸能人素人をモデルにした一連の激写シリーズで知られるようになる。

1975年に発売された大判写真集『家』と『晴れた日』は、初期の代表作である[1]。『家』では、北海道から沖縄まで、日本列島約80カ所にのぼる「日本の家」の様々な様相が記録され、北海道、岩手県遠野市古民家をはじめとし、赤坂迎賓館台東区上野の古銭湯、横尾忠則がかつて住んでいた家、高輪の郷ひろみ邸、新宿アパート、北九州の筑豊炭鉱、 沖縄県竹富島長崎県軍艦島廃墟や、廃墟となった家などが収められた[1]

また、生家や4歳の時に1年弱疎開した埼玉秩父にも30年余ぶりに母と連れ立って出掛け、幼少期の記憶の撮影が行われた。これは、篠山にとって「写真」というメディアを再確認する行為であったようで、「懐かしさや個人的思い入れはあったとしても、それらは「写真」にあらわされるものではないし、その思いも見る者に伝わることはない。「私的」なことを表現したければ、「文学」でやればいいのだ」と篠山は語っている[1]。翌1976年には、評論家多木浩二によって著されたテキスト『生きられた家』が単行本として刊行された[1]

1978年に写真集『大激写 135人の女ともだち』がベストセラーになったのが端緒で、1980年には篠山をメインにした写真雑誌『写楽』が創刊された[10]

1978年から1997年にかけては『週刊朝日』の表紙写真を撮影。1980年に始まった『週刊朝日』表紙の女子大生シリーズからは、何人もの女優女子アナウンサーを輩出している[11]。その他にも『週刊現代』の表紙写真や、月刊テレビ情報誌『B.L.T.』の表紙、及び巻頭グラビアを毎号担当。『B.L.T.』では被写体のヌードはないが、寝そべって、胸の谷間を見せるポーズなど他の雑誌よりは露出度が高いグラビアを撮影している。
ヌード写真でブームに

女性を被写体とした多数のヌード写真を撮影している。1969年にカメラマンの沢渡朔、林宏樹らと全日本恥毛露出連盟ことゼンチロレンを結成して会長に就任[12]

1991年には女優の樋口可南子をモデルにした写真集「Water Fruit 不測の事態」で事実上、陰毛を解禁させ、続けて同年に出版した当時トップアイドルだった宮沢りえのヌード写真集「Santa Fe」は新聞に出した全面広告が評判を呼び、ヘアヌードブームを巻き起こした。「Santa Fe」はその年のベストセラー7位、「Water Fruit 不測の事態」は10位の記録を残している[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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