この項目では、兵庫県の城について説明しています。
「篠山城」の異称を持つ福岡県久留米市の城については「久留米城」をご覧ください。
logo篠山城
(兵庫県)
鉄門跡(くろがねもんあと)と復元大書院
別名桐ヶ城
城郭構造輪郭式平山城
天守構造なし(天守台はあり)
築城主徳川家康
築城年1609年(慶長14年)
主な城主形原松平家、青山氏
廃城年1871年(明治4年)
遺構石垣、堀
指定文化財国の史跡
再建造物二の丸御殿大書院
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度4分22.16秒 東経135度13分5.71秒 / 北緯35.0728222度 東経135.2182528度 / 35.0728222; 135.2182528
篠山城(ささやまじょう)は、兵庫県丹波篠山市北新町にあった日本の城(近世城郭)。篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた平山城で、篠山藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。
歴史・沿革
江戸時代
1609年(慶長14年) - 徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成した。
1766年(明和3年) - 藩校「振徳堂」を建設。
以後、松井松平家一代、藤井松平家二代、形原松平家五代、青山家六代の歴代篠山藩主を経て明治を迎えた。 1873年(明治6年) に城郭の建造物が取り壊され始めた。二の丸御殿の大書院(おおしょいん)も公示入札を行ったところ100円での落札が決まったが、取り壊しに多くの費用が必要なことから放置された[1]。これを旧藩士の安藤直紀
近現代
1875年(明治8年)から1910年(明治43年) - 二の丸御殿大書院は丹波篠山市立篠山小学校(当時:篠山尋常小学校)の校舎として、1910年(明治43年)からは多紀郡公会堂として利用されていた。
1912年(明治45年)から1922年(大正11年) - 二の丸に郡立高等女学校があった。
1944年(昭和19年)1月6日 - 失火により大書院が焼失。
1953年(昭和28年)頃 - 内堀が埋め立てられ、公園化が進む。
1954年(昭和29年)頃 - 多紀文化顕彰会や多紀郡町村会長が国に対して保存活動を行う。
1956年(昭和31年)12月28日 - 国の史跡に指定される。
1993年(平成5年)12月 - 城下町地区が兵庫県の景観形成地区に指定される。