凡例篠原 長房
時代戦国時代
生誕不詳
死没元亀4年7月16日(1573年8月13日)
改名長房→岫雲斎怒朴(法名)[1]
別名孫四郎(通称)、右京進(官途名)、紫雲
墓所徳島県阿波市阿波町野神の伊沢神社境内
主君三好実休→長治
氏族阿波篠原氏
父母父:篠原長政
兄弟長房、佐吉兵衛、自遁(実長)
妻継室:兼詮
篠原 長房(しのはら ながふさ)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣で、阿波国麻植郡上桜城主。篠原長政の子。
三好長慶の弟・三好実休の重臣であり、実休討死の後は遺児・三好長治を補佐して阿波において三好家中をまとめた。三好氏の分国法である新加制式の編纂にあたるなど、能吏として知られる一方で、阿波・讃岐両国の軍勢を率いてしばしば畿内へ出兵した。 「三好千満(実休)内者」と呼ばれる篠原氏[2][3]の筆頭格であり、天文22年(1553年)、三好実休が阿波国守護・細川持隆を殺害し下剋上するとこれに従い、実休の指揮下にあって天文23年(1554年)11月から弘治元年(1555年)2月に播磨国へ、永禄元年(1558年)8月から12月まで摂津・山城へ、永禄年中に讃岐国の香川之景を攻めるなど、各地を転戦した。
生涯
三好実休の重臣
永禄4年(1561年)7月に始まる対畠山高政・根来寺戦では実休に従って和泉国に出陣し、翌永禄5年(1562年)3月の久米田の戦いにおいて先陣を任され勇戦するが、手薄となった本陣を襲われ、主君・実休を失う。長房は兵をまとめ戦場から退却し、実休の兄・三好長慶の指揮のもと同年5月の教興寺の戦いで高政を破った。久米田の戦いの後、長房は弟で木津城主・篠原自遁(実長)や板西城主・赤沢宗伝ととともに剃髪し、岫雲斎怒朴と号した[5]。 実休の死後、阿波の国主は長男であった三好長治が継いだ。しかし、長治は当時8歳であったため、長房は弟の自遁、赤沢宗伝らと共に長治を補佐した。永禄7年(1564年)12月、長慶の喪を知って上洛し、三好長逸・松永久秀らと後事を計って帰国する。 その後、畿内の三好宗家に内訌が起こると、永禄9年(1566年)6月に足利義栄を擁立し三好長治・細川真之(細川持隆の子、長治の異父兄)を奉じて四国勢を動員し畿内に上陸した。長房は三好一門の有力者・三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対、同年9月には、松永方の瓦林三河守より摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和国ほか各地に転戦した。 永禄11年(1568年)2月には14代将軍・足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、三人衆と共に松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落すなど(信貴山城の戦い)、宗家当主・三好義継の離反があったものの久秀との戦いを優勢に進めている。 この時期の長房は、『フロイス日本史』に「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった」と記されるほどであった[6]。阿波・讃岐両国をよくまとめて長慶の死後退勢に向かう三好氏を支えたといえる。 しかし同年、15代将軍・足利義昭を擁立した織田信長が9月7日に岐阜城を出立、12日に六角義賢の近江観音寺城が陥落(観音寺城の戦い)、25日に大津まで進軍すると、篠原長房と三人衆の軍は崩壊する。更に29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄、10月2日には長房も越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。
三好家内紛と信貴山城の戦い
織田信長の上洛と野田城・福島城の戦い