篠原三代平
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篠原三代平生誕1919年10月26日
死没 (2012-12-07) 2012年12月7日(93歳没)
研究分野景気循環論
他の指導教員大熊信行中山伊知郎
影響を
受けた人物シュンペーター
影響を
与えた人物尾高煌之助[1]
受賞日本学士院賞
文化勲章
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篠原 三代平(しのはら みよへい、1919年10月26日 - 2012年12月7日)は、日本経済学者一橋大学名誉教授。専門は経済理論位階従三位勲二等瑞宝章受章、紫綬褒章受章、文化功労者文化勲章受章、日本学士院賞受賞。
人物

富山県高岡市末広町に雑貨商の家に長男として生まれた。父は雑貨店篠原商店を経営し、母は明治の女性としては珍しく女学校銀時計を受領し卒業し、篠原商店の経営を助けた。

高岡商業学校卒業後は高岡高等商業学校に進学した。大熊信行の講義を、大熊の著書『マルクスのロビンソン物語』や『経済本質論』を読み返しながら、熱心に聴講したが、卒業論文「経済構造と金融:理論経済学と金融理論」の指導教官は長尾義三(金融論・景気論・銀行論)であった[2]。大熊との交流は篠原が学者となったのちも続き、夏休みには、大熊、高岡商業と東京商科大の先輩である板垣與一軽井沢で過ごすのが恒例となっていた。1993年6月19日に開催された大熊信行先生生誕百年記念講演会では板垣の主催者代表挨拶に続いて講演(「大熊経済学の印象」)を行った[3]

高岡高商卒業後は、東京商科大学(現一橋大学)で中山伊知郎門下に入り経済学を学ぶが、1941年から学徒出陣不整脈のため幹部候補生試験には不合格となり、主計伍長として富山鹿児島で従軍。

1942年9月に大学を繰り上げ卒業した。卒業後の進路としては、高等商業学校の教師を志し、卒業2か月前に師事していた中山伊知郎に相談したところ、「遅すぎる」と言われ、結局、東京商科大学東亜経済研究所無給嘱託となることがいったん決まり、面接を受けた。ところが「実証研究には向かない」と言われ、無給嘱託の約束も取り消された。そこで、東京商科大学に特別研究生として残り、3年後に論文「雇用理論と資本理論」を完成させ、中山及び有沢広巳森田優三が始めた大蔵省の財政経済実勢研究室の研究員に就任。

大蔵省の研究員を4年間務めたのち、一橋大学経済研究所の助教授に就任。そこで大川一司の影響を受け、理論研究から、実証研究に重点を移す[4]

日本経済学会会長、景気循環学会会長、財団法人アジア・クラブ理事長、統計研究会会長、アジア経済研究所会長、財団法人全国統計協会連合会大内賞委員会委員長、経済企画庁経済研究所所長[5]、経済企画庁参与、日本銀行参与等を歴任。

中央社会保険医療協議会委員[6]、経済企画庁景気動向指数研究会座長、経済企画庁景気基準日付検討委員会委員長、日本道路公団経営改善委員会委員長、1992年物価安定政策会議議長、総理府統計審議会会長、対外経済問題諮問委員会委員等を歴任。

1988年日本学士院賞受賞[7]。1989年(平成元年)勲二等瑞宝章[8][7]。1984年紫綬褒章[7]、1998年文化功労者[7]、2006年(平成18年)文化勲章[7]一橋大学名誉教授、東京国際大学名誉教授。2007年(平成19年)武蔵野市名誉市民[9]

2012年(平成24年)12月7日、東京都内の病院で死去[10]。93歳没。没後、従三位

2013年(平成25年)3月28日に偲ぶ会開催、5月に『景気とサイクル』篠原三代平先生追悼特別号(景気循環学会)刊行、週刊エコノミスト連載「温経知世:経済学者の思想と理論」最終回記事(2013-12-17)は、嶋中雄二「(vol.110)篠原三代平 Miyohei Shinohara 1919-2012 実証的かつ独創的な景気循環理論」。
略歴

1919年 - 富山県高岡市生まれ


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