築山殿
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つきやまどの
築山殿

生誕天文8年(1539年)から天文11年にかけて出生か諸説あり[1]
死没天正7年8月29日1579年9月19日
別名築山御前、駿河御前、瀬名姫
配偶者徳川家康
子供松平信康亀姫
親父?関口氏純[2][3]
母?関口夫人今川義元の妹?、または井伊直平長女)
親戚兄弟?正長、道秀、
姉妹?大谷元秀室、築山殿、北条氏規室?
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築山殿(つきやまどの、天文11年(1542年)? - 天正7年8月29日1579年9月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性
概要

徳川家康正室。築山殿の実名は不明である[4]。テレビドラマや小説など現代の創作では瀬名の名があてられるが、当時の史料はもちろん、江戸時代前期に成立した史料にも瀬名の名はみられない[5]。江戸時代中期の元文5年(1740年)成立の『武徳編年集成』巻三に、「関口或いは瀬名とも称す」と記載されている[5]。(父親の関口親永は今川一門の瀬名氏の出身。)一般的には築山殿、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)ともいわれる[6]。「築山」の由来は岡崎市の地名である[7]。具体的な場所は『岡崎東泉記』という史料に記載されており[8]、岡崎城の北東約1キロほどに位置する、岡崎市久右衛門町であったとされる。このことから築山殿は同地に独立した屋敷を構え、居住したとみることができる[9]

父は関口親永[4](氏純とも[2][3])。母は今川義元の伯母とも妹ともいわれているが、近年は井伊直平の娘である説がある。今川義元の妹であれば、築山殿は、義元の姪となる。[6]。夫の徳川家康よりも2歳くらい年上、低くみても同年齢くらいと推測されている[10]

母は『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によると井伊直平の娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したという[11]。その場合だと井伊直盛とはいとこ井伊直虎従姪に当たる。

近年では、関口親永と今川氏との婚姻関係そのものの存在を否定する説(親永の実兄である瀬名氏俊が義元の姉を妻にしたのを誤認したとする[12])もあるが、そもそも関口氏自体が御一家衆と呼ばれる今川氏一門と位置づけられる家柄であった。家康(当時は松平元信・その後松平元康に改名)が今川氏一門である関口氏の娘婿になるということは、今川氏一門に准じる地位が与えられたことを意味していた[13]
生涯
結婚・出産

天文8年から天文11年かけて出生した可能性が高いとされる[1]弘治3年(1557年)正月15日、今川家の人質として駿府にいた松平元信(後の徳川家康)と16歳の時、結婚する[4]永禄2年(1559年)に松平信康を、同3年(1560年)に亀姫を産む。
転機

永禄3年(1560年5月19日桶狭間の戦いにて、伯父の今川義元が討たれ、元康(元信から改名。のちの家康)は岡崎に帰還することとなった。永禄5年(1562年)3月、父の親永は娘婿である家康(元康から改名)が織田信長と同盟を結んだ事で今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害した。築山殿は、石川数正が駿河に来て今川氏真を説得し、鵜殿氏長鵜殿氏次と築山殿母子との人質交換をすることで、駿府の今川館から子供たちと共に家康の根拠地である岡崎に移った[14]。しかし、岡崎城内ではなく城外の現在の西岸寺辺りにあった寺院に居住したことや、『家忠日記』における築山殿を示す敬称が正室を表す「御前さま」ではなく、「信康御母さま」であることなどから、今川との手切れにあたって離縁されたとも見られている[15]

永禄10年(1567年)、息子の信康と織田信長の長女・徳姫(五徳)が9歳同士で結婚する[16]元亀元年(1570年)に信康が嫡子として岡崎城に移された際に、嫡子生母として岡崎城に入ることとなる[15]
対立・最期

家康は遠江浜松に移ったが、築山殿は後継ぎの信康とともに岡崎にとどまった。

天正2年(1574年)家康の側室長勝院が次男結城秀康を出産するが、築山殿は家康の子供を妊娠することを認めていないため長勝院を城内から退去させている。正妻は、別妻や妾として承知するかの権限を持っていた[17]別妻の存在とその子供の出産が、正妻の管理下に置かれていたこと、そこにおける正妻の絶対的な権限の存在を認識することができる[18]

天正3年(1575年)、信康の家臣大岡弥四郎らが武田勝頼に内通して謀反を企んだことが発覚し処刑される事件が起きたが、『岡崎東泉記』『石川正西聞見集』によれば築山殿もこの謀反計画に加担していたという。当時、甲斐国口寄せ巫女が岡崎領に大勢来ており、それにつけ込んで勝頼が巫女を懐柔して築山殿に取り入らせ、徳姫を勝頼の味方にすれば築山殿を勝頼の妻とし信康を勝頼の嫡男にして天下を譲り受けるという託宣を巫女に述べさせた。さらに築山殿の屋敷に出入りしていた西慶という唐人医をこの談合に巻き込み、弥四郎らを大将分として勝頼から所領を与える判物が出されたとしている。

徳姫は天正4年(1576年)には登久姫を、天正5年(1577年)には熊姫を産んだ。しかし、いつまでたっても息子を産まないため、心配した築山殿は、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘および日向時昌の娘など部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせた(『系図纂要』)。

天正7年(1579年)、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人医師減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か条からなる訴状を信長に送り、これにより信長が家康に信康の処刑を命じたとされる。家康の上意により妻の処分が伝えられ、築山殿は8月29日に岡崎から二俣城へ護送中、遠江国敷知郡佐鳴湖に近い小藪村(浜松市中央区富塚)で徳川家の将来を危惧した岡本時仲野中重政によって自害をせまられ、自害を拒んだ事から独断によって首を刎ね殺害された。検使役は石川義房が務めて首は安土城の信長の元に届けられた[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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