築地
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「築地」のその他の用法については「築地 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 東京都 > 中央区 > 築地

築地
町丁
築地市場
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}築地築地の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分46.76秒 東経139度46分8.79秒 / 北緯35.6629889度 東経139.7691083度 / 35.6629889; 139.7691083
日本
都道府県 東京都
特別区 中央区
地域京橋地域
人口(2019年(令和元年)9月1日現在)[1]
 ? 合計8,268人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号104-0045[2]
市外局番03[3]
ナンバープレート品川

築地(つきじ)は、東京都中央区地名で、旧京橋区に当たる京橋地域内である。現行の行政地名は築地一丁目から築地七丁目。郵便番号は104-0045[2]
概要

明治より京橋区役所や現在の中央区役所が置かれ、中央区京橋地域の行政的中枢を担ってきた。そのため警察署郵便局(旧集配局)など行政機関が集中している。東京湾河口部に面している土地柄、日本海軍中央卸売市場築地市場)など、海に関連する施設が存在した。1869年には築地鉄砲洲(現在のから明石町)に外国人居留地も設けられた。地域名の京橋を冠して京橋築地とも呼ばれている。

北に新富および入船、東に明石町および隅田川対岸の勝どき、南に浜離宮庭園および港区東新橋、西に銀座が位置する。明石町・入船・新富同様、域内に「銀座」「東銀座」を名乗るマンションやビルが少なくない。
地理

京橋地域の南部に位置する。
河川


隅田川

勝鬨橋

築地大橋


歴史
埋立地

「築地」は元来埋立地の意味で、東京築地も埋立地である。江戸時代1657年明暦3年)の明暦の大火の際に焼失した浅草御門南の西本願寺(現在の築地本願寺)の代替地として佃島の住人によってこの土地が造成された。その後、浄土真宗寺院墓地が次々と建立され、周辺は寺町のようになった。ほかの地域は武家屋敷が数多く立ち並んでいた。
外国人居留区

1869年には築地鉄砲洲(現在のから明石町)に外国人居留地も設けられた。このことから在日アメリカ人子弟向けの学校であるアメリカンスクール・イン・ジャパンの校舎が1902年の開校時に設けられていた。また、中津藩藩士福澤諭吉蘭学塾慶應義塾)を開いた場所でもある。
海軍関係施設

江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設け、後に海軍部門の軍艦操練所を設置、勝海舟らが教授として赴任した。明治維新の後、大名屋敷や講武所跡は明治政府に接収され、太平洋戦争後に日本海軍が解散されるまで、主に海軍用地として使用された。過去に築地にあった日本海軍関係施設は以下の通り。「旗山」の石碑(魚河岸水神社遥拝所境内にて2011年撮影)

海軍本省
1872年明治5年)、元松平定信別邸のあった場所に創立。海軍卿旗を掲揚した浴恩園内の築山は「旗山」と呼ばれた。この地は後に築地市場となり、水神社遥拝所境内に海軍発祥の石碑として「旗山」の碑が設置された[4][5]

海軍兵学校
1869年(明治2年)、海軍操練所として元芸州蔵屋敷内に創立[6]、翌年に海軍兵学寮に、さらに1876年(明治9年)に海軍兵学校と改称された。1887年(明治20年)に広島江田島に移転された。

海軍軍医学校
1873年(明治6年)、海軍病院付属学舎として創立。1880年(明治13年)に廃校となるが、1882年(明治15年)に海軍医務局学舎としてに再興され、1889年(明治22年)に海軍軍医学校と改称された。さらに1908年(明治41年)に築地に移転され、1929年昭和4年)に築地五丁目に新築移転され、現在敷地は国立がん研究センター中央病院となっている。

軍艦操練所
1857年安政4年)、江戸幕府が講武所内に軍艦教授所として開設。1859年、勝海舟が砲術教授となり改名。オランダから寄贈された「観光丸」(旧名「スンビン号」)で乗員訓練が行われた。

海軍経理学校
1888年(明治21年)、それまで芝山内天神谷にあった海軍会計舎を移転、1907年(明治40年)に改名。1932年(昭和7年)に勝鬨橋西詰に新築移転され、太平洋戦争終結後の1945年(昭和20年)に廃校となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef