築地米三郎
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1958年

築地 米三郎(つきじ よねさぶろう、1923年9月15日 - 2012年3月30日[要出典])は、東京都出身の特撮監督、プロデューサー。
来歴

東京品川の大井町に生まれる。生家の前に「大井館」という映画館があり、5、6歳から映画館に毎日通うようになった。

1939年(昭和14年)、神田電機学校(現:東京電機大学)を卒業。父親の親友だった青島順一郎撮影技師の紹介で、映画会社新興キネマに入社。撮影助手となる。

1942年(昭和17年)、新興キネマが大都映画日活と合併、「大日本映画製作株式会社」となる。各社とも社員を1/3にリストラしての合併だったが、「このなかに何とか残った」と語っている。

同年、日本軍の要請で大日本映画が『香港攻略 英國崩るゝの日』を製作。香港ロケに参加し、合成を手掛ける。

1945年(昭和20年)、「大日本映画製作株式会社」が「大映株式会社」となる。

1946年(昭和21年)、新生大映で特殊撮影キャメラマンに昇進。このあと、東宝を公職追放されフリーとなった円谷英二が大映に嘱託参加。円谷に師事して特撮の技法を学ぶ。

1954年(昭和29年)、ヨットを題材にした青春映画『真白き富士の嶺』(佐伯幸三監督)で、特殊撮影を初演出。ミニチュア撮影のほか、東洋現像所が当時日本で初めて購入したオプチカル・プリンターを使用し、「パン合成」(横移動を含めたフィルム合成)に成功[1]。フィルムにずれの生じやすいこの高度な技法を、ズレを調整する機械を作って見事成し遂げ、永田雅一大映社長から「永田社長賞」を授与される。

大映では特撮描写はリアルさが求められ、前面に押し出されることがあまり無かった。撮影所でも特撮部門は力が弱く、築地も「監督」表記されることは無かった。が、やがて大作主義への移行と共に、大映も大規模な特撮映画を製作するようになっていく。

1956年(昭和31年)、カラーSF映画『宇宙人東京に現わる』(島耕二監督)に参加。的場徹を手伝う。同年、カラー作品『忘れじの午後8時13分』(佐伯幸三監督)で特撮を担当する。

1958年(昭和33年)、『氷壁』(増村保造監督)で、ザイル登山シーンの特撮を担当。セットのスケール感を出すため、当時小学校一年生だった長男と、その同級生に吹き替えをしてもらった。息子は泣きながら演じてくれたという。

同年、大映京都撮影所制作の『日蓮と蒙古大襲来』(渡辺邦男監督)に参加。大映京都には特撮課が無かったため、築地は特撮アドバイザーとして呼ばれた[2]

1962年(昭和37年)、70mm大作スペクタクル映画『秦・始皇帝』(田中重雄監督)の特撮を監督。当初『鯨神』(田中徳三監督)の担当予定で、段取りを組んでいたところ、永田雅一社長から撮入直前に急遽『秦・始皇帝』担当を命じられ、『鯨神』の特撮は的場徹にまかせることになったという。

1963年(昭和38年)、特撮パニック映画『大群獣ネズラ』を企画するが、「生きたネズミを使う」という撮影方法が衛生問題となり、組合争議にまで発展して撮影中途で頓挫してしまう。「テストまでして会社に損させてしまいました」と述懐している。

1965年(昭和40年)、『あゝ零戦』(村山三男監督)を担当。また同年、大映初の怪獣映画『大怪獣ガメラ』(湯浅憲明監督)の特撮を担当。大ヒットとなり、シリーズ化された「ガメラ映画」は大映のドル箱シリーズとなった。築地は「ネズラの失敗の後の名誉挽回です」と語っている。この年、特撮に理解の無い大映を見限って退社。国際放映に移籍する。

1966年(昭和41年)4月、「築地特撮プロダクション」(のち築地企画と改名)を設立。テレビ番組などで腕を振るう。

1967年(昭和42年)、『コメットさん』(TBS)の特撮を担当。「ギャラクシー賞」を受賞する。


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