築土神社
拝殿
所在地東京都千代田区九段北1-14-21
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分46秒 東経139度45分0秒 / 北緯35.69611度 東経139.75000度 / 35.69611; 139.75000
築土神社(つくどじんじゃ)は、東京都千代田区九段にある神社である。通称、築土明神。
創建時の祭神・平将門に因み、武勇長久の神社として親しまれ、千代田区北の丸公園にある日本武道館の氏神でもある。
毎年正月に授与される勝守(かちまもり)は有名。 現在は天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を主祭神とし、平将門、菅原道真を配祀する。 江戸時代の文献によると、当社内には平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものが安置されていたといわれ、数ある将門ゆかりの社寺の中で、将門信仰の象徴的神社となっていた。明治に教部省の指示により将門は相殿に格下げされ、現在は天津彦火邇々杵尊が当社の主祭神となっている。 戦災で当社が焼失するまで、将門の首を納めたという首桶[注釈 1]、将門の肖像画(束帯姿)、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていた。昭和20年4月、戦災により社殿とともにそれらは焼失し、現在は一部の写真が残るのみである。 東京都千代田区九段北1-14-21
祭神
歴史
天慶3年[2](940年)6月、江戸の津久戸村(上平川村[3]、現:千代田区大手町一丁目将門塚付近)に平将門の首を祀り、塚を築いたことから「津久戸明神」として[2]創建されたという。
室町時代[注釈 2]に太田道灌により田安郷(現:千代田区九段坂上)へ移転させられて以降は「田安明神」とも呼ばれ[3]、日枝神社、神田明神とともに江戸三社の一つにも数えられることもあった(江戸三社のうち、日枝神社、神田明神以外は固定していない)。
元和2年(1616年)に江戸城の拡張工事により筑土八幡神社隣接地(現:新宿区筑土八幡町)へ移転し[3]、「築土明神」と呼ばれた。
明治7年(1874年)天津彦火邇々杵尊を主祭神として「築土神社」へ改称する。
300年以上の間、筑土八幡神社と並んで鎮座していたが、1945年の東京大空襲によって全焼し、1954年、現在の九段中坂の途中にある世継稲荷境内地へ移転した。
平成6年(1994年)、境内地にオフィスビルを建設するとともに、鉄筋コンクリート造の社殿を新築。
平成18年(2006年)の築土祭では、安政6年(1859)の神田明神以来、実に147年振りに神輿渡御行列の江戸城入りを果たしている。
祭事・年中行事
9月15日の例大祭に至る一週間の行事を「築土祭」と呼び、節目の年には神輿渡御などが行われる。
氏子地域
千代田区九段北一・二丁目
千代田区九段南一・二丁目
千代田区飯田橋
千代田区富士見
千代田区北の丸公園
千代田区一ツ橋一丁目
新宿区市谷船河原町 - 当地に摂社があるため、飛地状態で氏子地域となっている。[注釈 3]
文化財
狛犬(筑土神社)
千代田区指定文化財有形民俗文化財[4]
力石(筑土神社)
千代田区指定文化財有形民俗文化財[4]
所在地・交通
九段下駅下車すぐ
ギャラリー
中坂に面した参道
安永九年(1780年)銘の狛犬(阿形)
世継稲荷
靖国通り・北の丸スクエア方面から本殿を望む
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 御神体の「首桶」なるものは、『東京市史稿』市街篇第2巻186頁に写真が残されている。蓋上面に「江戸/上平川」、側面に「江戸郷/上平河村」と墨書されており、何らかの神宝を納めるために作られた中世の曲物(まげもの)であったようである。
^ 『江戸名所図会』では天正7年(1580年)[3]。
^ 築土神社は、1945年(昭和20年)まで、氏子地域から離れた新宿区筑土八幡町にあり、筑土八幡神社と並んで鎮座していた。この一帯は筑土八幡神社の氏子地域である。市谷船河原町の外堀通りからアンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院)への入口にある摂社は、古代の「さねかずら」という美女にまつわる「掘兼の井」の故地であるとする伝承がある。『江戸名所記』所収「掘兼の井」の記述はここをさすと見られる。当町にはかつて氏子総代をつとめた旧家があり、平安時代に京都でさらされていた平将門の首級を密かに奪い取って持ち帰った者の子孫であったと言い伝えられていたという。
出典^ a b c 東京都神社庁.
^ a b 江戸名所図会 1927, p. 517.