節分祭
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葛飾北斎画:『北斎漫画
『節分の鬼』豆撒き 『吉田神社追儺』 - 都年中行事画(1928年

節分(せつぶん/せちぶん)は、雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春立夏立秋立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。
太陰太陽暦(旧暦)では、立春に最も近い新月を元日とし、月(太陰)の満ち欠けを基準(月切)にした元日(旧正月)と、太陽黄経を基準(節切)にした立春は、ともに新年ととらえられていた。したがって、旧暦12月末日(大晦日)と立春前日の節分は、ともに年越しの日と意識されていたことになる。今も節分を「年越し」「年取り(数え年とは、生まれた日を1歳とし、誕生日に関係なく新年に皆が年を取る数え方)」と呼ぶ地域があるのはこの名残である。
本項目では、立春の前日、およびその日に行われる伝統的な行事について述べる。

一般的には「鬼は外、福は内」と声を出しながら福豆(煎り大豆)を撒いて、年齢の数だけ(もしくは1つ多く)豆を食べる厄除けを行う。また、邪気除けの柊鰯などを飾る。これらは、地方や神社などによって異なってくる(後述)。
目次

1 概要

2 日付

2.1 年内節分

2.2 九星


3 豆まき

3.1 方法

3.2 ごもっとも

3.3 近代の傾向


4 その他の民俗

4.1 邪気・魔物・妖怪

4.2 魔除け

4.2.1 柊鰯

4.2.2 鬼ぐい

4.2.3 目籠

4.2.4 護符


4.3 厄祓い

4.3.1 四つ辻

4.3.2 かわらけ割り

4.3.3 鬼の豆

4.3.4 節分お化け

4.3.5 小豆


4.4 参詣

4.5 占い

4.5.1 豆占

4.5.2 初夢



5 行事食

6 節分祭・節分会

6.1 神社

6.2 寺院

6.3 その他


7 関連作品

8 注釈

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

概要

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われる。

宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていた。

「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去された。『延喜式』によれば、土偶(土人形の意)も土牛も、各門での大きさは同じで、土偶は高さ2尺で、方1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。土牛は高さ2尺・長さ3尺で、長さ3尺5寸・広さ1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。陽明門および待賢門には、青色のものを、美福門朱雀門には、赤色のものを、郁芳門、皇嘉門、殷富門および達智門には、黄色のものを、藻壁門および談天門には、白色のものを、安嘉門および偉鑒門には、黒色のを、立てる。『公事根源』十二月には、「青色は春の色ひんかしにたつ赤色は夏のいろ南にたつ白色は秋のいろ西にたつ黒色は冬の色北にたつ四方の門にまた黄色の土牛をたてくはふるは中央土のいろなり木火金水は土ははなれぬ理有」とある。

これは、平安時代頃から行われている「追儺」から生まれた[1]。元中国から伝わったこの行事は日本に定着していき、現在の節分の元となった[2]

続日本紀慶雲三年十二月の条によると706年にこの追儺が始まり(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」とある)、室町時代に使用されていた「の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行った。

近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、当日の夕暮れ、の枝にの頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった[1]
日付

節分の日付(未来は予測)年4で割った余り
1230
1873年 - 1884年3日3日3日3日
1882年 - 1900年2日3日3日3日
1901年 - 1917年3日4日4日4日
1915年 - 1954年3日3日4日4日
1952年 - 1987年3日3日3日4日
1985年 - 2020年3日3日3日3日
2021年 - 2057年2日3日3日3日
2055年 - 2090年2日2日3日3日
2088年 - 2100年2日2日2日3日
2101年 - 21??年3日3日3日4日

現在は毎年2月3日であるが、これは1985年から2020年までに限ることであり、常にそうではない。

1984年までは、4年に1度の閏年2月4日だった。2021年からは閏年の翌年に2月2日になる。グレゴリオ暦での最初の節分となった1873年から22世紀初頭までの具体的な日付は表のようになる(重複している年はどちらの欄を使っても正しい日付が出る)。数十年のスケールで徐々に前倒しになってくるが、4で割り切れても閏年とならない1900年、2100年、2200年.....の翌年に1日遅れて帳消しとなる。

立春の前日であり、立春は太陽黄経が315度となる日である。このように、間接的に天体の運行に基づいているので、日付は年によって異なり、また未来の日付は軌道計算に基づく予測しかできない。なお厳密には、基準とする標準時によっても異なるが、日本以外では祝う風習がないので、旧正月のように国による日付の違いが話題となることはない。
年内節分

太陰太陽暦では、19年に7回閏月を加え閏年とするため、年末に立春を迎えることがある。それに伴い節分も年内となる。これを年内節分という。
九星

暦注において、年の九星は立春をもって切り替わるので、節分までは前年の九星となる。
豆まき 神社における豆撒きの様子 家庭の豆撒きで使用する豆とお面

邪気を追い払うために、古くから豆撒きの行事が執り行われている。

文献に現れる最も古い記録は、室町時代の応永32年(1425年)正月8日(節分)を記した2文書である。宮中の『看聞日記』には「抑鬼大豆打事、近年重有朝臣無何打之」とあり[3]、室町幕府の記録『花営三代記』には「天晴。節分大豆打役。昭心カチグリ打。アキノ方申ト酉ノアイ也。アキノ方ヨリウチテアキノ方ニテ止」とある[4]ことから、この頃既に都の公家武家で豆まきが習わしになっていたことがわかる。

その20年後に編纂された辞典『?嚢鈔』(1445年または1446年成立)巻一の八十三「節分夜打大豆事」には、宇多天皇の時代(867年-931年)、鞍馬山の僧正が谷と美曽路池(深泥池)の端にある石穴からが出て来て都を荒らすのを祈祷し、鬼の穴を封じて三石三升の炒り豆(大豆)で鬼のを打ちつぶし、災厄を逃れたとする由来伝説が記されている[5]

豆は、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある[1]

豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べる。また、自分の年の数の1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないという習わしがあるところもある。初期においては豆は後方に撒くこともあったと言う。
方法

豆をまく際には掛け声をかける。室町時代の相国寺の僧侶、瑞渓周鳳の日記である『臥雲日件録』の文安4年(西暦1448年)12月22日の記述には「散熬豆因唱鬼外福内」とある[6]ように、掛け声は通常「鬼は外、福は内」である。

しかし、地域や神社によって異なる場合がある。


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