この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年5月)
箱田 六輔(はこだ ろくすけ、1850年(嘉永3年5月) - 1888年(明治21年)1月19日)は、日本の自由民権運動家。 福岡藩士青木善平の第二子として筑前国福岡に生まれる。幼名は円三郎、諱は義門、六輔は通称。後に箱田仙蔵を継ぎ箱田姓となる。1868年(明治元年)戊辰戦争で奥羽に転戦し功をなし、その後同志と共に藩兵隊就義隊を組織するが、1870年(明治3年)隊士間での対立が起こり決闘寸前に藩に探知され姫島に流される。流刑から解放後、儒学者高場乱(おさむ)の興志塾
経歴
幼少期から萩の乱
出獄後は自由民権運動に参加、1878年(明治11年)12月頭山満、平岡浩太郎、進藤喜平太等と共に向陽社
を組織し社長に就任、傍ら教育機関として向陽義塾を設立、筑前民権運動の指導者となる。1879年(明治12年)12月筑前共愛公衆会代表として上京し、国会開設、条約改正の建白を元老院に呈出する。1881年(明治14年)向陽社を玄洋社と改名、1882年(明治15年)11月には第4代社長に就任する。一方、愛国社、国会期成同盟など民権運動の全国組織でも指導的役割を演じ、筑前民権運動が土佐立志社に匹敵するまでに高揚する原動力となった。玄洋社の中で最も徹底した民権論者であったとされる。性格は豪放で人望あつく将来を期待されたが、国会開設の前年の1888年(明治21年)1月19日割腹自殺を遂げる。背景には玄洋社の「民権から国権への転向」による民権論をめぐる争いがあったとされるが、死に至る真相は今もって論議を呼ぶ。