箱根土地
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箱根土地(はこねとち)は、大正時代から昭和時代戦前にかけて存在した日本の不動産会社である。かつて西武グループの中核企業のひとつであった国土計画(後のコクド)、現在のプリンスホテルの前身[1]

1920年(大正9年)3月、堤康次郎により「箱根土地株式会社」として設立。現在に連なる西武グループの基礎を形成した企業である[1]

軽井沢千ヶ滝別荘地(長野県軽井沢町)、箱根強羅芦ノ湖近辺の別荘地分譲、東京目白目白文化村など郊外住宅地分譲、現在の練馬区大泉学園国立市小平市における「学園都市構想」に基づく大規模宅地開発事業など、戦前期を通じて東京およびその周辺を中心に大規模な不動産開発を多数行った。

同時に不動産開発を手がけた地域での鉄道新線建設、既存の鉄道会社の買収なども手広く行い、のちの西武グループの基礎を形作るに至った。

1944年昭和19年)2月、 「国土計画興業株式会社」に社名変更(のち1965年(昭和40年)6月「国土計画株式会社」に、1992年(平成4年)3月「株式会社コクド」に再度社名変更)[1]。1944年2月以降の歴史はコクドの項を参照。なお株式会社コクドは2006年(平成18年)2月1日をもって消滅し、株式会社プリンスホテル(初代)に吸収合併された[1]。詳細は「コクド」、「プリンスホテル」、および「西武リアルティソリューションズ」を参照
概要

箱根土地の設立は1919年大正8年)4月で、会社所在地は下谷区北稲荷町11[2]。資本金は500,000円で内払込頭125,000円[2]。取締役は山科禮蔵、藤田経孝、杉原柴三郎、監査役は竹内林之助、河浦謙であった[2]

1920年大正9年)2月に「箱根土地株式会社」の設立趣意書が作られ、「二大理由により帝都の附近に於て完全なる大遊園地の必要、理由1に、五大国の一としての日本には今後外国からの客が増える、理由2に、生活力が向上したわが国民の休息の場」とし、完全なる大遊園地の条件として「大規模な設備、汽車自動車人車等の便により数時間で来られる事、風光明媚にして閑雅、地理的変化に鑑み長い滞在にも飽きない、各方面及び地域内の交通の便、四季の眺望、中和な気候、健康に適し病後保養にも効果あり、清涼豊潤な水と温泉、新鮮な山海の食料の供給、名所旧跡。 以上の条件から箱根は絶対無二の良候補地である。足柄下郡宮城野村、元箱根村、箱根町、土肥町に跨り約百五十万坪を取得し、道路を開き温泉を配給、ホテル、貸別荘、倶楽部その他の娯楽場を設置し居住、滞在、遊覧ともに好みによって応じられる設備を用意する開発を行なう[3]」とうたわれた。

1920年大正9年)3月、箱根土地株式会社(後の国土計画・コクド)設立[1]

1920年大正9年)3月25日設立の箱根土地株式会社の事業概要、起債並二収支予算、定款 (大正9年2月)では、「資本金二千万円内四分の一払込の五百万円万円の社債を以て経営にあたる。土地事業は本来確実である上に当社の買収土地は会社成立前ずでに買収価格の数倍または十数倍に騰貴、だから社債の発行は容易である。当社は最も確実有望なる事業であるから全卸発起人賛成人にて株を引受け、公衆募集は全く行なわない」としている。ところが箱根土地株式会社「第一回報告」(大正9年上半期、大正9年5月)では、「ほぼ目的地の土地買収に充て、別に三百三百万円の社債募集」について、9年5月の株主総会にてあらためて決議をしている。

このほかに、1920年大正9年)4月、長野県北佐久郡東長倉村(現・軽井沢町)所在の土地並びに附属財産の買収を契約し、管理経営に着手している。

創設時の役員は当時の著名な財界人公家血筋の人物で、1920年大正9年)3月25日創立時では取締役社長が藤田謙一、取締役に若尾璋八、同 前川太兵衛(甲府の製糸商風間伊七次男、東京銀行頭取などのほか、相場師として知られた)、監査役永井外吉、1920年大正9年)4月には取締役に吉村繊之助、監査役に男爵九條良政 (九條は、1920年大正9年)12月には辞任)である。

1921年大正10年)10月24日から、堤康次郎が専務取締役に、1921年大正10年)12月30日から、九鬼紋七が監査役にそれぞれ就任している。
沿革

1914年(大正3年)、堤康次郎下落合にて目白文化村の土地買収を開始。

1917年(大正6年)、軽井沢沓掛地区(軽井沢町中軽井沢)区民総会が区有地の堤康次郎への売却を決議。 康次郎は東京府豊多摩郡落合村大字下落合に沓掛遊園地株式会社(資本金20万円)を設立、、別荘地の開発を開始。 翌年に沓掛地区区有地を買収。

1918年千ヶ滝遊園地株式会社設立。藤田謙一を経営陣に招く。沓掛(中軽井沢) - 千ヶ滝通り七間道路の敷設工事開始。

1919年、堤康次郎、株式会社グリーンホテル(資本金100万円)を設立。

1919年、箱根での土地売買人による著しい価格吊り上げ「赤星事件」が発生。堤康次郎が対抗し、箱根別荘地の大規模開発を開始。

1920年(大正9年)、千ヶ滝遊園地株式会社を清算。

1920年3月、資本金2000万円、払込500万円で豊多摩郡落合村大字上落合119番地に箱根土地株式会社が発足。

1920年、 沓掛遊園地株式会社が前橋営林署より鬼押出六里ヶ原80万坪を授受。

1921年(大正10年)、 1911年に設立され芦ノ湖にて観光船「芦ノ湖遊覧船」の営業を開始していた箱根遊船株式会社を全株式取得で買収。元箱根村、箱根町両渡船組合を合併吸収させ、芦ノ湖の観光船事業を独占。

1921年、小田原電気鉄道(現・小田急箱根)の株式を取得開始。

1921年、 資本金100万円で強羅土地株式会社を設立、主に強羅地区での事業分担。

1921年、 三島町の箱根山組合等に箱根山西麓地区の借用を申し入れ。 箱根山組合(三島町管理)と箱根山西麓地区共有地(総面積2767町6反3畝3歩)の貸付契約締結。

1921年、 東長倉村沓掛(中軽井沢) - 同村千ヶ瀧間(電気鉄道 2.0 km/軌間1067 mm)の免許取得[4]

1921年、沓梶B- 峯の茶屋 - 三原間に一般自動車道を建設し提供。 湯川発電所を建設し提供。

1921年、 観翠楼(後にホテル観翠楼と改称)の営業開始。

1922年(大正11年)、 経済的に困窮した近衛家から下落合の所有地の譲渡をうける

1922年、 株式会社グリーンホテルを吸収。資本金2050万円に増資。

1922年、 湯河原 - 広河原間(電気鉄道 5.1 km)、広河原 - 鞍掛山 - 箱根間(鋼索線 4.8 km)の免許取得[5]

1923年(大正12年)、 グリーンホテル(軽井沢千ヶ滝緑ヶ丘)の営業開始。

1923年、 小平学園の土地(60万坪)買収開始。

1923年、 駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の株を買収し、傘下に治める。

1923年、 箱根、函南、泉村地籍82万坪の永久借地権取得。

1923年、 旧中川久任伯爵邸跡地3400坪(渋谷道玄坂)を商業地分譲開発。

1924年(大正13年)、 箱根土地株式会社と東京商科大学(現・一橋大学)が、神田一ツ橋約1万坪と国立大学町約7万5千坪との土地交換契約締結。

1924年、 新軽井沢 - 南軽井沢間の20間道路の敷設工事開始。南軽井沢での貸別荘経営開始。

1924年、 旧中川邸跡地に百軒店(名店街)設置。

1924年、 大泉学園都市林間舞踏大会を開催。

1924年、 武蔵野鉄道に寄付した東大泉駅(現・大泉学園駅)が営業開始。

1924年、 堤康次郎、衆議院議員初当選。

1925年(大正14年)、 国分寺大学都市民衆マラソン競走を開催。


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