管子
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この項目では、書物について説明しています。人物については「管仲」をご覧ください。

『管子』(かんし、?音: Gu?nzi)は、古代中国管仲に仮託して書かれた、法家または道家雑家の書物。管仲の著書だと伝えられているが、篇によって思想や言い回しが異なり著者は複数居るとされる。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。管子
成立

管子の思想内容は豊富であり、一見雑然としている。成立についても戦国から代の長い時期に徐々に完成されたと考えられる。

管仲の著書であるとされているものの、実際は戦国期の稷下の学士たちの手によって著された部分が多いと考えられている。また、内容的に見ると、各篇によって異なった学派、思想的立場に立つ人たちの著作がまとめられていると見られ、その面から言えば、実質的には雑家の著作である。「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」という言葉はよく知られている。

漢書』「芸文志」は、「道家」に分類しているが、『隋書』「経籍志」以降清代の『四庫全書総目提要』にいたるまで「法家」に分類されている。しかし、すでに宋代の陳振孫がこの書物を法家に分類することに疑義を呈している。
構成

管子の構成は成立の事情と散逸した箇所があるため非常に複雑である。以下やや詳しく構成について述べる。

現存76篇の構成は、
経言

外言

内言

短語

区言

雑篇

管子解

管子軽重

の八類に分類されている。
来歴

漢書』「芸文志」は86篇であるといい、『隋書』「経籍志」では19巻本であるとされている。この19巻は86篇を漢代以降に巻本にわけたものと考えられており、この間内容に大きな変化はないと思われる。『新唐書』「芸文志」では19巻本に尹知章(中国語版)注を付した30巻本があらわれた。『宋史』「芸文志」では24巻本の管子と19巻本の尹知章注本があるとされているため、尹知章注の11巻は散逸したらしい。24巻本は現行の房玄齢注本と同一であると考えられるが、現存部分が19巻まで注釈が詳しいことなどを考えると、尹知章注の散逸部分に原本の相当箇所を加え、新たに注釈者を房玄齢に仮託したと考えられる。
亡逸した篇

つぎに現行76篇と成立当初の86篇の対応関係であるが、初においてすでに10篇が失われ、76篇となっていることが確認されている。しかし刊本になった宋代以降にも10篇失われたという記述もあるため、成立当初からどのくらいの篇が失われているか詳しくは解明できない。これを考える上の参考として、たとえば幼官第八と幼官図第九は内容が重複しており、幼官図のほうは元々図面の体裁であったと考えられること、また封禅第五十ははやく失われ、現行部分は『史記』封禅書からの抜粋であることが明記されていることがあげられる。篇が失われるごとに既存の篇を分割して篇の総数を合わせることがおこなわれたと考えられている。
八類の分類について

八類の分類がいつごろ現在の形に定まったかは明らかではないが、漢代にはすでに管子の一部を「経」とか「内」「外」などと分類することはおこなわれていたらしい。八類の分類は成立前後からすでに通行していたと思われる。
思想

様々な分野の思想が扱われており、「経言」は思想史上の史料として、「管子軽重」は社会経済史上の史料として重視される。また、農業史、農業技術史上の史料も各篇に散見され、「地員篇」は当時の土壌に関する認識をうかがう上での貴重な史料となる。

20世紀郭沫若らは、「心術上篇」「心術下篇」「白心篇」「内業篇」以上四篇の思想を、諸子百家の宋?尹文学派の失われた思想である、と推定した(詳細は宋?を参照)。
受容

三国時代傅玄が後人の仮託として以来[1]孔穎達朱熹ら多くの学者が仮託としている。

唐代には、上記の尹知章(中国語版)または房玄齢に帰される注釈書が著された。明代には、劉績(中国語版)が『管子補註』を著した。清代には、考証学者の王念孫や陳奐(中国語版)が考証したほか、洪頤?(中国語版)が『管子義証』を、戴望が『管子校正』を著した。

朝鮮では、李氏朝鮮期の許?が著書『惺所覆?稿』で管子の思想を高く評価した[2]

日本では、平安時代初期頃に伝えられて以来重んじられ、江戸時代後期には安井息軒が『管子纂詁』を著した[3]
参考文献

木村英一 「管子の成立に関する二、三の考察」(『支那学10』、1942年)

遠藤哲夫新釈漢文大系 管子 上・中・下』(明治書院、1989-92年)

金谷治 『管子の研究?中国古代思想史の一面』(岩波書店、1987年)ISBN 4000003194

筑摩書房世界古典文学全集19 諸子百家』。現代語編訳を収録

関連文献

宣兆g『図説 管子 生涯と功績』、浅野裕一監修、三浦吉明 翻訳、国書刊行会、2020年3月

W. Allyn Rickett and Zhong Guan, Guanzi: Political, Economic, And Philosophical Essays From Early China: A Study And Translation. Boston 2001: Cheng & Tsui Company. 1985年にPrinceton Univ Pressから出版されたものの改訂版。数編を英訳。

外部リンク

『管子』全文 - 中国哲学書電子化計画

脚注^ 「管仲之書、過半是後之好事者所為、輕重諸篇尤鄙俗。」(劉恕『資治通鑑外紀』所引)
^ 「管子書?雜重複、似不出一人手。其心術、内業等篇、皆附會道家、而宙合諸篇、皆用隠語、俶譎詭怪。以仲責之術。安得有此謬悠語耶。使果出其手。不過故爲權辭以飾之耳。仲之情見於其書者、獨牧民、大匡、輕重等篇。而牧民尤爲簡明。其論兵陣之制。農桑諸利之原。鑿鑿中其綮。宜其施之事而輒有實效。終至於富國強兵。取威定霸。而尊其主爲百五首也。噫。世已末矣。王道卒不可行。則安得如管子者爲政而治其民耶。」(『惺所覆?稿』 卷13 「文部」10「管子」)
^ “新釈漢文大系 42 管子 上 - 明治書院”. 明治書院. 2020年12月14日閲覧。


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