箕輪城
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}この項目では、上野国(現在の群馬県)にある箕輪城について説明しています。その他の用法については「箕輪城 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
logo箕輪城
(群馬県)
箕輪城の石碑
城郭構造梯郭式平山城
天守構造なし
築城主長野業尚
築城年1512年(永正9年)
主な改修者武田氏、北条氏、井伊氏
主な城主長野業正、内藤昌月、滝川一益、北条氏邦、井伊直政
廃城年1598年(慶長3年)
遺構石垣、土塁、空堀、馬出し、井戸、復元門
指定文化財国の史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度24分17.8秒 東経138度57分3.5秒 / 北緯36.404944度 東経138.950972度 / 36.404944; 138.950972
地図 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}箕輪城
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箕輪城(みのわじょう)は、群馬県高崎市箕郷町にあった日本の城(平山城)。国の史跡に指定されている[1]。日本100名城の一つ。郭馬出西虎口門(復元)
概要箕輪城は、榛名白川
によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なものであった。現在にのこる遺構として、石垣・土塁・空堀の跡が認められる。
歴史・沿革
箕輪長野氏の時代永正9年(1512年)戦国時代中期、当地を支配する長野氏の長野業尚
によって築かれた。また、大永6年(1526年)業尚の子の信業によって築かれたという説もある。信業の代には、守護代であり山内家宰の白井・総社長尾氏を凌駕する勢力を持っていた。
戦国時代の上野には関東管領山内上杉家が存在したが、永禄元年(1558年)、上杉憲政が越後へ亡命した後は、相模を本拠とする北条氏康、甲斐の武田信玄、越後の上杉政虎(上杉憲政の名跡を継いだ)が侵攻を繰り返す場であった。このようななかで信業の子長野業正は、上杉氏の後ろ盾を得て、箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね、名君と謳われて長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有するに至った。業正の代にはまた、武田信玄の侵略がたびたび繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保った。
武田氏の侵攻詳細は「西上野侵攻」を参照
永禄4年(1561年)11月、長野業正が没すると(前年に没した説もあり)14歳(17歳とも)で子の長野業盛が家督を継いだ。長野業正は臨終に際し「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」と伝え、その死は永らく秘匿された。しかし、業正の死を知るや武田信玄は再び西上野への侵攻を開始した。近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。
永禄8年(1565年)頃には箕輪城は孤立していき、永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し長野業盛は自刃して果てた。
武田氏時代箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅利信種が城代に任じられる。元亀元年(1570年)頃には内藤昌豊(昌秀)が城代となり、天正3年(1575年) 長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月が城代に任じられた。
織田氏・北条氏の侵攻天正10年(1582年)3月の天目山の戦いで武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣・滝川一益が上野一国を拝領し箕輪城を接収、次いで厩橋城に入った。内藤昌月は近隣の領主と共にこれに従っている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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