箕作麟祥
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箕作 麟祥
人物情報
別名貞一郎
生誕 (1846-09-19) 1846年9月19日弘化3年7月29日
武蔵国江戸鍛冶橋(現・東京都中央区八重洲
死没 (1897-11-29) 1897年11月29日(51歳没)
東京府東京市麹町区富士見町(現・東京都千代田区
国籍 日本
両親省吾箕作阮甫養子)、しん(箕作阮甫四女)
子供貞子(長女・石川千代松妻)、操子(三女・長岡半太郎妻)、祥三(三男)、俊夫(四男)
学問
研究分野洋学英学フランス学)、法学フランス法
研究機関蕃書調所→洋書調所→開成所
学位法学博士(日本・1888年)
主要な作品『仏蘭西法律書』(1870-1874年)
『泰西 勧善訓蒙』(1871年)
学会東京学士会院
行政法協会
明六社
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日本政治家箕作 麟祥
貴族院議員
選挙区(勅選議員
在任期間1890年9月29日 - 1897年12月1日[1]
元老院議官
在任期間1880年4月10日 - 1888年11月9日
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箕作 麟祥(みつくり りんしょう / あきよし、1846年9月19日弘化3年7月29日) - 1897年明治30年)11月29日)は、幕末から明治時代の日本の幕臣官僚洋学者法学者男爵法学博士

元老院議官司法次官貴族院勅選議員行政裁判所長官和仏法律学校(現・法政大学)初代校長を歴任し、民法商法編纂委員、法律取調委員会委員、法典調査会主査委員を務めた。
名称

明治5年に仮名実名(諱)の併用が禁止された時、苗字+仮名の「箕作貞一郎」を改め、苗字+諱の「箕作麟祥」と改名(※祥は実際には旧字体)。「麟祥」は易経書経に由来するという(黒田綱彦証言)。ところが、名乗りの読みを提出せよと命じられたところ、「リンショウ」の読みは知っているが親がどういうつもりで名付けたか知らない、一般的にどう読むのかもわからないというのが本人の認識であった。鷲津毅堂に「アキヨシ」を提案されたのでそれに決めた、とされている(佐原純一証言)[2]。実際に当時の人々がそう呼んだかは不明。国立国会図書館は「りんしょう」の読みを採用している[3]
人物

箕作省吾・しん夫妻の長男として江戸津山藩邸に生まれた。幼名は貞太郎(のち貞一郎)。祖父は蘭学者箕作阮甫で、父・省吾は阮甫の婿養子、母・しんは阮甫の四女だったが、父・省吾が若くして亡くなったので祖父・阮甫に育てられた。阮甫の死後、箕作家[4]の家督を相続した。従兄に数学者菊池大麓、動物学者箕作佳吉、歴史学者箕作元八、大叔父に蘭学者の箕作秋坪がいる。

藤森天山安積艮斎漢学を、家と江戸幕府蕃書調所東京大学の源流)で蘭学を学んだ後、ジョン万次郎(中浜万次郎)について英学を学んだ。1861年8月5日(文久元年6月29日)に15歳の若さで蕃書調所の英学教授手伝並出役、このころから家塾を開き、乙骨太郎乙・鈴木唯一・外山正一・菊池大麓・箕作佳吉・大島貞益らに英学を教授し、1864年元治元年)には外国奉行支配翻訳御用頭取となり、福澤諭吉福地源一郎らとともに、英文外交文書の翻訳に従事した。箕作麟祥といえばフランス法学者のイメージがあるが、彼は元来「英学者」であった[5]。また、法典調査会時代にはドイツ語文献も読めるようになっている。

1867年慶応3年)、ナポレオン3世パリ万国博覧会に際して、将軍の名代として出席する徳川慶喜の弟・徳川昭武に、幕府の命により渋沢栄一らと一緒に随行、2月15日横浜を出発。その後、徳川昭武とともにフランスに留学した。

明治元年2月24日の帰国後の1868年明治元年)、明治新政府の下で、開成所御用掛から兵庫県御用掛となって新設の神戸洋学校教授に着任。時の兵庫県令伊藤博文(伊藤俊介)は、騎馬で出迎え歓迎を表した[6]。翌1869年(明治2年)には東京に戻り、外国官(現・外務省)翻訳御用掛となるが、外交官を好まず、同年大学南校(現・東京大学)大学中博士に転じる。なお、同年開いた私塾・共学社には、岸本辰雄らが学んだ[6]。明治2年5月ころ、官務のかたわら家塾を開き、中江兆民・大井憲太郎らが入塾、明治4年2月ころ中止。

1869年(明治2年)、参議副島種臣からフランス刑法典の翻訳を命じられ、翌1870年(明治3年)には制度取調局長官(後の司法卿)・江藤新平からフランス民法典(ナポレオン法典)の翻訳を命じられた。以後、長年にわたり法典の翻訳、編纂に携わっていく。また、1871年(明治4年)に文部省が設置されると、その基礎固めに参画し[7]学制の起草・制定にあたっては、起草委員長ともいうべき地位にあって[8]、主導的役割を果たした。

日本で初めて「権利」「義務」という訳語を用い[9]、また「動産」「不動産」「治罪法」「義務相殺」「未必條件」などの訳語を新規に創作し[10]、5年の歳月をかけてフランスの諸法典を全訳した『仏蘭西法律書』(1874年)は、日本国の人々に初めて近代法典というものを実物で知らしめ、近代的裁判制度への大きな転換期にあって手探り状態の中で裁判にあたっていた当時の司法官や、その後の日本の近代的法制度の整備に多大な影響を与え、日本における法律学の基礎を築いた。このことから、箕作麟祥は日本における「法律の元祖」[11][12]と評される。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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