箕作家
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箕作家
四つ目結
本姓称・宇多源氏六角氏庶流
家祖箕作泰秀
種別華族男爵
出身地近江国
主な根拠地美作国
著名な人物箕作阮甫
箕作省吾
箕作麟祥
箕作祥一
支流、分家箕作秋坪家
箕作佳吉家
凡例 / Category:日本の氏族

箕作家(みつくりけ)は、親族に学者が多いことで知られる日本の家系のひとつ。

学者一族としての箕作家は近世蘭学者箕作阮甫から始まる。阮甫の子孫や婿の系列にも著名な学者も多い。

なお、現在の箕作家当主は学者ではなく、箕作本家の学者一家の伝統は途切れている。
先祖

箕作家は宇多源氏佐々木氏の支流を称し、戦国時代六角定頼が、近江国箕作城(現在の滋賀県東近江市五個荘山本町)に住んで箕作弾正を称したのに始まるという。その後箕作家は美作国に移り現在の岡山県美作市楢原に住み、箕作貞辨の代に医家となった。
箕作家の著名人

近世箕作家の祖、阮甫は男子に恵まれなかった[1]。そこで阮甫は優れた弟子を婿養子に迎え[1]、また他の女子を弟子の優れたものに嫁がせた[1]。それらの弟子が学者になることが多かったため、結果的に箕作家は女系を通じて、学術分野の多くの人材とつながる現象が生じた。

Newton』の編集長で地球科学者の水谷仁は同誌の連載「学問の歩きオロジー」において「子供を教育するのは、その親の本分であることをみんな忘れてしまっている」という箕作秋坪(阮甫の弟子で婿養子)の言葉を引用した上で「箕作家では少なくとも親、祖父が子供を熱心に教育していたのが知られていますから、この秋坪の言葉には重みがあります」と語っている[2]。箕作家は家庭での教育の重要性も知っており、そのことが多くの学者を輩出した事由の一つであると考えられる。

たとえば、土星型原子モデルを提唱した理論物理学者長岡半太郎は娘婿であり[3]電子線回折実験で世界的に有名な実験物理学者菊池正士は女系子孫[3]天皇機関説を主張した法学者美濃部達吉は女系子孫の娘婿である[3]

また、箕作元八は、昭和天皇が1972年3月8日付のニューヨークタイムズのインタビューに答えた記事に、『裕仁は「自身の人生と知的発達にもっとも影響を与えた人物は、ドイツで学んだあとに日本の西洋史の権威となった日本人教授、箕作元八である。」と打ち明けた。天皇は「箕作元八の著書は、何年か前に私に西洋史の傾向や西洋の民主主義を理解することの重要性を証明してくれた。そして、私の勅書においても、具体的なアイデアの速やかな採用に貢献した。」と述べた[4]。』と紹介されて世界的に有名になった人物。

その他、以下の項目で詳説する。
箕作男爵家

阮甫は妻・といとの間に4女をもうけたものの、男子が無かった[5]

長女・せきは弟子の山田黄石に嫁がせ、黄石は後に呉と改姓、呉家の祖となった[3][5]

三女・つねと四女・しん(ちま)には弟子を婿養子として迎えた(次女は夭折)[5][6]

2人の婿養子のうち、しんの夫・箕作省吾が夭折したので省吾の長男・箕作麟祥秋坪とともに嗣子となった。1854年安政元年)に阮甫は秋坪に家督を譲って隠居し、麟祥を連れて分家した。これが箕作男爵家の始まりである(当時は華族制度もなく、「男爵」ではない)。

阮甫の死後・麟祥が箕作男爵家の当主となった。麟祥は死に際して男爵を贈られたため以降は箕作男爵家が箕作一族の本家となった。麟祥の長男・泰一と次男・正次郎はともに夭折したため麟祥の死後三男・祥三が家督と爵位を継いだ[7]。だが祥三も夭折したため異母弟の俊夫(麟祥の四男)が男爵箕作家の3代目(阮甫から数え4代目)当主となった[3][7]

なお麟祥の長女・貞子は石川千代松[3]、三女・操子は長岡半太郎に嫁いだ[3][5]

俊夫の死後家督と爵位は、長男・祥一が継ぎ敗戦に至った。祥一(元日本大学農獣医学部教授)の死後は、その弟・俊次(俊夫の次男)が箕作本家の当主となり[7]2011年現在の当主は俊次の長男・有俊である。なお、俊次・有俊の親子は共に学問以外の道を歩んだため、ここに至って箕作家の学者家系としての伝統は絶たれたといえる。


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