箕作奎吾
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箕作 秋坪
人物情報
別名宜信斎()、文蔵(通称)、矩(
生誕 (1826-01-15) 1826年1月15日文政8年12月8日
備中国阿賀郡上呰部村(現・岡山県真庭市
死没 (1886-12-03) 1886年12月3日(60歳没)
国籍 日本
配偶者つね(先妻・箕作阮甫三女)、ちま(後妻・箕作阮甫四女)
子供箕作奎吾(長男)、菊池大麓(次男)、佳吉(三男)、元八(四男)、直子(長女・坪井正五郎妻)
学問
研究分野洋学蘭学
研究機関蕃書調所
学会東京学士会院
明六社
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箕作 秋坪(みつくり しゅうへい、文政8年12月8日1826年1月15日〉 - 明治19年〈1886年12月3日)は、江戸時代末期から明治時代洋学者(蘭学者)教育者啓蒙思想家は矩、通称は文蔵、は宜信斎。
生涯

文政8年(1826年)、備中国(現・岡山県)の儒者菊池陶愛(菊池應輔亮和の婿養子である医者菊池好直正因の養子である菊池慎の子。名は文理。通称は士郎)[1]の次男として生まれた。

美作国津山藩士の箕作阮甫、次いで緒方洪庵適塾にて蘭学を学び、それぞれの弟子となった。嘉永3年(1850年)、阮甫の二女・つねと婚姻して婿養子となり[2]、長男・奎吾(夭折)、次男・数学者大麓(秋坪の実家・菊池家の養嗣子)、三男・動物学者箕作佳吉、四男・歴史学者箕作元八の4男をもうけた。

幕末の外交多事のなか、幕府天文方で翻訳に従事[3]安政6年(1859年)、幕府蕃書調所東京大学の前身)の教授手伝となる。文久元年(1861年)の幕府による文久遣欧使節に、福澤諭吉寺島宗則福地源一郎らと随行しヨーロッパを視察[4]慶応2年(1866年)、樺太国境交渉の使節としてロシアへ派遣された[5]

明治維新後は、かつての攘夷論者が率いる明治新政府に仕えるのを好まず[6]三叉学舎を開設。三叉学舎は当時、福沢諭吉慶應義塾と並び称される洋学塾の双璧であり、東郷平八郎原敬平沼騏一郎大槻文彦らが学んだ。また、専修学校専修大学の前身)開設に際しては、法律経済科を設置し、創立者の相馬永胤らに教授を任せる等の協力をした。

明治8年(1875年)から2年間弱、東京師範学校摂理を嘱託[7]、明治12年(1879年)には、教育博物館(のち東京教育博物館:国立科学博物館の前身)館長を嘱託された。明治14年(1881年)に文部省御用掛(准奏任取扱)に任命された後、明治18年(1885年)には、その適性と学才が認められ正式に文部省官吏として任用(従五位)され、東京教育博物館長とともに東京図書館(帝国図書館及び国立国会図書館の前身)館長を兼務した[8]

この間、明治6年(1874年)、森有礼らと明六社を創立してまもなく社長に就任[9]。明治12年(1879年)には、福澤諭吉西周加藤弘之らとともに東京学士会院の創設に参画し、創立会員7名の一人に選ばれた[10]

秋坪は古賀?庵に学んだ漢学の大家でもあった。教育者として、秋坪は2・3歳から6・7歳までの児童を教育することが最も効果的だと主張し、教育能力を欠く家庭の父母、特に女子への教育の重要性を説いた[11]

妻・つねの死後、その妹で箕作省吾未亡人であったしん(ちま、阮甫の三女)と再婚[12]


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