箒川鉄橋列車転落事故
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箒川鉄橋列車転落事故
発生日
1899年10月7日
発生時刻17時頃(JST
日本
場所栃木県矢板駅 - 野崎駅間、箒川鉄橋上
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度50分10.2秒 東経139度57分5.2秒 / 北緯36.836167度 東経139.951444度 / 36.836167; 139.951444座標: 北緯36度50分10.2秒 東経139度57分5.2秒 / 北緯36.836167度 東経139.951444度 / 36.836167; 139.951444
路線東北本線
運行者日本鉄道
事故種類列車脱線事故
原因台風通過時における列車運行の強行及び地形条件など
統計
列車数1(第375列車)[1][2]
乗客数62人[3]
死者19人[注釈 1]
負傷者38人[注釈 1][注釈 2]
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箒川鉄橋列車転落事故(ほうきがわてっきょうれっしゃてんらくじこ)は、1899年明治32年)10月7日に発生した列車脱線事故である。東北本線矢板駅 - 野崎駅間にある箒川鉄橋を通過中の列車が突風に煽られて連結器が外れ、貨車(貨物緩急車)1両と客車7両の合計8両が折からの豪雨によって増水した箒川の流れに転落して死者19人、負傷者38人の被害を出した[注釈 1][注釈 2]明治時代における最悪の列車事故として歴史に残っている[4]
事故の経緯
事故発生前

東北本線は、当初は日本鉄道株式会社の経営する私鉄路線であった[4][5][6]。1883年(明治16年)7月28日に上野 - 大宮間(この時点では大宮駅は未開業)が開通してから路線を順次北へ延伸していき、1886年(明治19年)10月1日には宇都宮 - 那須(現:西那須野[注釈 3])間が開通した[5][7]。全線が完成して青森まで開通したのは、1891年(明治24年)9月1日であった[5][8]

矢板駅は宇都宮 - 那須間開通と同時に開業した。矢板駅と1897年(明治30年)2月25日に開業した野崎駅の間には、箒川が流れていた。箒川は延長47.6キロメートルの一級河川那珂川水系に属し、大佐飛山地南西部の白倉山(しらくらやま、標高1,460メートル)付近を源流として那須野が原扇状地を東南に流れ、最後は那珂川に合流する河川である[4][9]

当時の箒川鉄橋は、全長約319メートル、川床からの高さが約6メートル、橋桁(プレート・ガーダー)14連で構成されていた[注釈 4][2][1]。この付近の地形は、南側に松原山丘陵、北側には那須野が原扇状地の緩やかに傾斜した丘陵原があり、このあたりでの箒川の流れはかなりの急流となっていた[4]。この付近の鉄道は下り列車が矢板駅方に設けられている針生トンネルを抜けて松原山丘陵を切通しで通過するとすぐに視界が開けて箒川の鉄橋にさしかかる状態であった[1][4]。このような地形条件によって箒川鉄橋上は風の通り道となっていて強風に遭いやすい状態であり、とりわけ冬季においては西北からの季節風を強く受けることで知られていた[2][4]
事故当日明治32年10月9日付東京朝日新聞に載った事故の様子を説明するイラスト明治32年10月10日付読売新聞による現場実況図

事故発生当日の1899年(明治32年)10月7日、この日は南方洋上で発生した台風本州に接近していた[10]福島行きの第375列車は11時に上野駅を発車し、特段台風の影響を受けてはいなかったものの対向列車との行き違いの関係で約50分遅れで宇都宮に到着した[1]。このとき宇都宮で観測された風速は9メートルだったため、第375列車は運転を続けた[2][10]。第375列車の後部車掌が証言したところによると、矢板駅を発車したのは16時40分頃であった[1]

矢板駅発車後、第375列車は箒川鉄橋にさしかかった。渡り始めたところで北西からの突風が列車の左側面に吹きつけ、機関士が後方を見たところ、8両目に連結していた無蓋貨車のシートが強風に煽られて吹き飛ばされかけていた[11]。続いて1等客車の車体が急激に右方向に張り出したのを目視して、警笛を吹鳴し機関車のブレーキをかけた[11]。機関士はその際に強い衝撃を感じたといい、後にこの時に貨物緩急車の連結器が切断したと思うと証言している[11]

第375列車は混合列車で、機関車2両、貨車11両、その後に客車(4輪単車)7両を連結していた[11]。編成は、次のとおりであった。

牽引機関車(イギリスベイヤー・ピーコック社製テンダー機関車)1両 - 回送機関車(イギリス製タンク機関車)1両 - 空貨車3両 - 積貨車7両 - 貨物緩急車(亥120) - 3等緩急車(ハ28) - 3等客車(ハ179) - 3等客車(ハ249) - 1等客車(イ3) - 2等客車(ロ17) - 3等客車(ハ275) - 3等緩急車(ハニ107) (太字体の車両が転落車両)[11]


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