筧克彦
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生誕 (1872-12-28)
1872年12月28日
日本筑摩県諏訪郡上諏訪(現・長野県諏訪市
死没 (1961-02-27) 1961年2月27日(88歳没)
出身校帝国大学法科大学
子供筧素彦(宮内官
筧泰彦(思想史家)
学問
研究分野法理学法哲学)、国法学憲法学)、行政法学国体古神道仏教哲学
研究機関東京帝国大学
國學院大學
特筆すべき概念弥栄、事物関係 - 表現関係 - 独立関係、日本体操(やまとばたらき)
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筧 克彦(かけい かつひこ、1872年12月28日明治5年11月28日〉 - 1961年昭和36年〉2月27日)は、日本の法学者神道思想家東京帝国大学法学部教授、國學院大學教授。従三位勲二等法学博士[1][2]長野県諏訪出身。
経歴

諏訪大社のある筑摩県諏訪郡上諏訪(現・長野県諏訪市)に旧諏訪藩士筧朴郎の長男として生まれる。東京府尋常中学校第一高等学校を経て、帝国大学法科大学入学。1897年(明治30年)、帝国大学法科大学法律学科首席卒業、法科大学卒業生総代。同期生には美濃部達吉(政治学科)など[3]。大学卒業後直ちに大学院に入り、翌1898年から6年間ドイツに留学して、オットー・フォン・ギールケアドルフ・フォン・ハルナックヴィルヘルム・ディルタイなどに師事した。

1903年(明治36年)、帰国と同時に東京帝国大学教授(行政法第二講座)に就いた。同講座の前任者は穗積八束である。美濃部達吉野村淳治上杉慎吉らと戦前帝大法科における憲法学国法学行政法学法理学などの教育、研究を担った。帝大の他にも、明治大学國學院大學海軍大学校などでも行政法・憲法を講じ[3]、退任後は國學院大學教授に就いた。1935年(昭和10年)から1940年(昭和15年)まで東京商科大学(現一橋大学)で、美濃部達吉の後任として、田上穰治に代わるまで憲法を講じた[4]。墓所は青山霊園(1イ2-15)。
家族

父:筧朴郎(
諏訪藩士

長男:筧素彦(宮内省総務課長、のち皇太后宮事務主管。終戦時には玉音盤を愛宕の放送局へ極秘裏に運搬した[5]

次男:筧泰彦学習院大学名誉教授。父の遺著の編纂を行っている)

研究・思想・活動
事物関係論

筧の法理学の根幹を為すのは「事物関係」の概念である。筧は個物が互いに同一物に帰一する関係を「表現関係」、個物がそれ自体独立する関係を「独立関係」とよび、公法理論をこの事物関係で説明した。

1934年、政治学者の矢部貞治は筧の理論を発展させ、筧克彦の還暦記念論文集に寄せた「代表の社會的基礎」(杉村章三郎編『筧教授還暦祝賀論文集』有斐閣、1934年)は「表現関係」(「表現」)と「独立関係」(「代理」)の間隙に存在する第三の社会関係(「代表」レプレゼンタチオン)を指摘した。
神道思想・神道教育

早くから古神道の研究を行い、戦前期の古神道理解に影響を与えた。

研究室には畳を置いた上に神棚を祀り、また大学での講義や文部省主催の講演などを始める際に柏手を打って、「惟神」(かんながら)を説く講義をした[3][6]。このことから、戦前の東大法学部では一種の名物教授として知られていた。

天皇機関説事件後の1935年(昭和10年)に設置された教学刷新評議会では天皇主義、国家主義の急先鋒であった[7]。ただし、その教育改革案は異彩を放っており、1936年2月13日の第二回特別会議で発表した『教学刷新に関する私案稿』では以下を提案した[8]

神祇府(斎神教学の最高府)、斎王(皇事を行う皇族男子)および斎王府、神祇官および神祇官会議(祭教分立の原則の下、天皇に直属し、斎神教学の明徴、審議を行う)を設ける。

帝国大学に皇学部、皇学研究所を設置し、教育・研究を行う。また、帝国大学に神棚を祭る。

入学試験、高等文官試験などで皇学を受験科目とする。

特徴的な国体学説

1912年(大正元年)には、いわゆる「上杉・美濃部論争」が、主としてドイツ憲法学(国法学)説の輸入学説間の大日本帝国憲法をめぐる分裂抗争の様相を見せている事を暗に批判した筧は、国家・天皇・臣民の「本来の一心同体」「一人の乞食でも之は即国家」を主張。我が国の「建国事実」に還るならば、両説が同じ「普遍我」の表現としての皇国体を学問の対象とする限り、対立の生ずるはずがないと主張した。[要出典]

また昭和10年代には「大生命」において「天皇様と国家の不二一体」と「皇国」の「御主人様」との二側面の合一を皇国体の特徴として指摘している[要出典]。『大日本帝国憲法の根本義』には、

「皇国神ながらの御主人様。御親様の御威力と皇国大生命の力とは不二たることを貴き性質とする。」

「天皇様と国家とはもと二元的に相対立せる存在ではなく、神代ながらに不二である。皇国は、天孫(皇孫)天降りによりて開かれ。開かれし当初より一生命、一徳、一統治権にして「大本の力は即国の普遍力」」

という記述がある。

こうした学説を唱え、国体明徴運動を推進した昭和10年代の筧を評して、同時代人の左派(進歩的知識人)の文学者中島健蔵は「近代政治学から見れば、はしにも棒にもかからない」「神道に基づく祭政一致論」を唱える、「札つきの神がかりの学者」と戦後の著書に記述している[9]
「万歳」批判と「いやさか」

中国由来の漢語である「万歳」を否定し、「いやさか」(弥栄)の優位を力説した[10]。筧は「万歳」は明治年間(1889年)に始まる創られた伝統であると指摘し、また「万歳」を中国的な個人主義思想として批判した[10]。言語的な観点では、「万歳」が漢音呉音重箱読であり、なおかつ濁音から構成されるのに対して、「いやさか」は清音から成る大和言葉であるため優れているとの主張がなされた[10][11]


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