筒井順昭
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 凡例筒井順昭

時代戦国時代
生誕大永3年(1523年
死没天文19年6月20日1550年8月2日
改名藤松[1]、順昭
別名栄舜坊
墓所圓證寺
氏族筒井氏
父母父:筒井順興
兄弟順昭、順政慈明寺順国福住順弘
大方殿[注釈 1]遊佐長教娘(養女?)[3]
順慶井戸良弘室、慈明寺順国室、福住順弘室、
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筒井 順昭(つつい じゅんしょう)は、戦国時代大和国大名筒井順興の嫡男。筒井順慶の父。興福寺官符衆徒で、筒井城を居城とした。
生涯

大永3年(1523年)、順興の子として誕生。天文4年(1535年)7月、父の死にともない家督を継ぎ[4]、天文7年(1538年)に得度(元服)した[5]

順昭が家督を継いだ当時、大和は木沢長政の支配下にあったが、天文11年(1542年)3月、太平寺の戦いで長政は戦死する[6]。順昭は長政を討った河内守護畠山稙長に与し、同年9月、長政方の飯盛山城へと出陣している[7]

天文12年(1543年)4月、順昭は6000騎の軍勢を率いて東山内(ひがしさんない、大和高原[8])の簀川氏を攻め、須川城を落城させた[9]。さらに、順昭は古市氏を攻めて古市城を奪うが、城は古市方の手により焼け落ちた[10]。翌天文13年(1544年)7月には、東山内の柳生城を攻め落とした[11][12]。このとき順昭が率いたのは、十市氏の300や鷹山弘頼の指揮する河内勢300[13]などからなる1万の軍勢だったという[14]

天文15年(1546年)8月の細川晴元細川氏綱の争いでは畠山政国遊佐長教とともに氏綱に味方し、順昭は一時竜田(生駒郡斑鳩町)へと出陣した[15]

同年9月、越智氏を攻めて、翌10月に貝吹山城を落城させる[16]。これにより、順昭は「一国悉以帰伏了」といわれ(『多聞院日記』)[17]、東山内と国中(くんなか、大和盆地[18])周辺の統一を果たした[19]。また、9月には十市氏より城(十市城か)を明け渡され[20]、天文16年(1547年)5月には箸尾氏の城を破却しており[20]筒井氏の最盛期を築くこととなった[21]

しかし、天文18年(1549年)4月、順昭は数名の供のみを連れて比叡山に入り[22]、生まれたばかりの嫡男・藤勝(順慶)へと家督を譲る[23]。順昭は、天文15年(1546年)に「もがさ」(天然痘か)を患っていたとみられており[22]、天文19年(1550年)6月20日に死去した[24]。享年28[25]

この後、幼少の順慶は、一族の福住宗職[26]や順昭の弟の筒井順政が後見していくことになる[27]

なお、順昭の供養塔である五輪塔(重要文化財)が、奈良県生駒市圓證寺にある[28]
元の木阿弥

順昭は死の間際に一族や重臣を集め、子の順慶への忠誠を誓わせるとともに、自分に容姿(または声[29])の似た奈良の盲目の法師・黙阿弥(木阿弥[29])を身代わりに立てるよう遺言した[30]。黙阿弥は順昭が最期を迎えた奈良の下屋敷で約1年間過ごし、一周忌を迎え順昭の死が公表されると恩賞を受け取り元の法師・黙阿弥に戻ったとされ、これが「元の黙阿弥(木阿弥[29])」の語源といわれる[30]。また、元の木阿弥の由来については他にも諸説ある[29][31]
系譜

父:
筒井順興(1484-1535)

母:不詳

姉:小田切春次室[注釈 2]

弟:筒井順政(?-1564)

妹:飯田頼直室[注釈 2]

妹:森好之[注釈 2]

弟:慈明寺順国[注釈 2]

弟:福住順弘[注釈 2]

妹:十市遠忠[注釈 2]

義妹:秋山直国室(順興養女)[注釈 2]


正室:大方殿

男子:筒井順慶(1549-1584)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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