筑豊炭田(ちくほうたんでん)は、福岡県の北九州市、中間市、直方市、飯塚市、田川市、山田市と遠賀郡、鞍手郡、嘉穂郡および田川郡の6市4郡にまたがる、かつての日本の主要な石炭の産地である[1]。殖産興業の推進、八幡製鐵所の設立などを背景に財閥企業・大手資本が進出し、炭田の開発は急速に伸び、全国石炭の半分以上を掘り出したこともあるなど、戦前は国内最大の炭鉱地帯だった[2]。 炭田は遠賀川、嘉麻川、穂波川、彦山川及び犬鳴川の流域に広がっていた。東は福智山から香春岳に連なる山脈に、西は孔大寺及び三郡山脈、南は熊ヶ畑山を構成する花崗岩に限られ、北は響灘に面し、面積は約787平方kmを占めていた[1]。 筑豊という名称は、またがる地域の旧国名である筑前と豊前の頭文字をとったもので、明治時代以降、炭鉱地域と石炭を背景に新しく生まれた概念である[2]。 筑豊地域の西側に隣接する糟屋郡にも炭田があるが、これは糟屋炭田と呼ばれ、筑豊炭田とは別の炭田である。 室町時代の中期頃に地元(現在の北九州市八幡西区香月地区)住民が石炭を発見し、薪より効率の良い燃料として用いていたとされる。江戸時代中期(西暦1700年代)頃から製塩において燃料として石炭を用いるようになったため、当時の小倉藩と福岡藩は域内の石炭採掘・輸送・販売を藩の管理下に置き、炭鉱の開発を進めた。 第二次世界大戦後も長い間、炭田としては日本一の石炭産出量を誇っていた。しかし、1951年(昭和26年)7月の集中豪雨[4]、1953年(昭和28年)の西日本大水害の豪雨と、立て続けに中小の炭鉱が浸水。特に西日本大水害では、遠賀川が決壊するなどして大きな打撃を受けた[5][6]。また、1950年代後半からはエネルギー革命が進展。エネルギー源の主体が石炭から石油に移行し、効率の良い炭鉱を開発し低効率の炭鉱を廃止する政策(スクラップ・アンド・ビルド政策)が進められたことで、1959年(昭和34年)に産出量日本一の座を石狩炭田に明け渡して急速に衰退が進んだ。筑豊の炭鉱は第二次世界大戦中の濫掘や設備酷使などにより炭鉱の疲弊が進み、新鉱を開発できる余地が少なく、1976年(昭和51年)の貝島炭礦 1960年代には大手企業の炭鉱が閉山した後、地元で新たに採炭企業(第二会社)を設立し従業員を再雇用して採炭を続けた例もあったが、いずれも長続きせず、5から10年程度で再び閉山となった。
炭田の存在した地域
歴史
江戸時代まで
戦前が公布され、明治政府や民間人により炭鉱開発が急速に進められた。1901年に操業開始した八幡製鐵所(現・日本製鉄八幡製鐵所)の操業開始により、さらに需要が増加し、生産量が増大した。また、八幡製鐵所の建設開始とほぼ同じ頃から財閥が炭鉱開発に参入している。こうして、戦前では日本最大規模の産炭地に成長した。1913年2月6日、嘉穂郡穂波村の二瀬炭鉱中央磐坑で炭塵爆発が発生し、中にいた124名中、女性18名を含む103名が犠牲となる事故が起きた[3][出典無効]。
戦後