筋肉少女帯
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筋肉少女帯
別名筋肉少年少女隊(旧名)
出身地
日本東京都[1]
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ロック[1]

ハードロック[2]

メタル[3]

ヴィジュアル系[4]

活動期間

1982年 - 1999年

2006年 -

レーベル

ナゴムレコード

トイズファクトリー

MCAビクター

マーキュリー

ジャパンレコーズ

公式サイト ⇒筋肉少女帯 大情報局!

メンバー

大槻ケンヂボーカル

内田雄一郎ベース

本城聡章(ギター

橘高文彦(ギター)


旧メンバー「#メンバー変遷」を参照

筋肉少女帯(きんにくしょうじょたい)は、日本ロックバンドである[1]1980年代後半から1990年代後半にかけて活躍し、2006年に活動を本格再開した。通称は「筋少」(きんしょう)で、アルファベットでは「King-Show」(初期は「KIN-SHOW」)と記す。
経歴
結成?インディーズ期

1979年に当時中学生だった大槻ケンヂ内田雄一郎が組んだバンド「ザ・ドテチンズ」(別名ドンズ。当時の大槻のあだ名より命名)が始まり。大槻は健康青竹踏みを打ち鳴らし、内田はエレクトーンを掻き鳴らした。

ドンズ解散後高校進学を経て、1982年2月に再びバンド「筋肉少年少女隊」を結成[3]。大槻は「JAGATARA」のようなファンクバンドを志向していたものの、練習スタジオでファンクが上手く説明できず、結局「ディープ・パープル」の様な曲調になったそうである。このやりとりから代表曲のひとつである『釈迦』が生まれた[5]。4月6日のライブハウス新宿JAM「伝染病解散ライブ」にてライブデビュー。

1984年、バンド名を「筋肉少女帯」に改め、ナゴムレコードよりインディーズデビュー。とはいえ、まだまだこの頃のライブでは大槻がうどん粉で顔面白塗りの上、裸体に包帯を幾重にも巻きつけて歌唱するなど、「当時は学園祭バンドみたいなノリで、完全にキワモノ」(大槻談)であった。

同じ頃、後に第22期筋肉少女帯メンバーとなる5人がそれぞれのバンド(大槻・内田は筋少、本城は筋少・有頂天・エッグレイヤー、太田はYTJ、橘高はSLEAZY LUSTER)でYAMAHAのコンテストに出場。たびたび顔を合わせる旧知の仲だった。筋少はパフォーマンス賞や審査員特別賞を受賞、橘高、太田はそれぞれベストギタリスト賞、ベストドラマー賞を取るなど、対照的な成績を残している。

1985年に三柴江戸蔵が参加[注 1]

1987年、ナゴムレコードより発売の自主制作シングル『高木ブー伝説』が話題を呼ぶ。冗談画報11PMなどに出演。その際演奏した高木ブー伝説、ドリフターといった楽曲の歌詞が問題となったりもした。そのためドリフターズ所属の事務所を名乗る者から苦情の電話が寄せられ、『高木ブー伝説』は結局自主回収という形で販売中止となる。しかし、その電話は後に悪戯と発覚する。大槻によれば、この一件で筋肉少女帯は一時解散の危機に立たされたが、他ならぬ高木ブーの擁護によって事なきを得たという[6]
メジャーデビュー?バンドブームの盛衰

様々なメンバーが加入と脱退を繰り返す中で活動を続け、1988年6月トイズファクトリーよりアルバム仏陀L』・シングル釈迦』でメジャーデビュー (第18期メンバー)。しかし、その後もメンバーが定着することはなく、半年後に発売された2ndアルバムは21期メンバーで録音された。

1989年2月の三柴脱退を受け、橘高文彦の加入・本城聡章の復帰が「大槻ケンヂのオールナイトニッポン」にて発表される (第22期)。筋少のオリジナル音源への参加に先駆け、「オールナイトニッポン」の企画から派生した「まんが道」(大槻と内田による変名ユニット) の『ボヨヨンロック』において非公式ながら初のレコーディング。その後、さらに同メンバーで録音された3rdアルバム以降ついにメンバーが定着し、以後10年間メンバー交代が行われることはなかった。

アルバム収録曲『日本印度化計画』が話題となり、続くシングル『元祖高木ブー伝説』(『高木ブー伝説』のリメイク) が一躍大ヒット。大槻がオールナイトニッポンのパーソナリティを務めたことも相まって、一躍有名バンドへとのし上がっていく。「筋肉少女帯の深夜改造計画」という看板TV番組まで持っていた。一方で、『ボヨヨンロック』、『日本印度化計画』、『元祖高木ブー伝説』と笑いの側面の強い曲が立て続けにヒットしたこともあり、はからずも世間にはコミックバンドという認知が俄かに定着しつつあった。大槻自身、この三作をまとめて「ボヨヨン・カレー・ブー」=「B・C・B」と呼び、度々自虐的に当時の状況をネタにしている。

1990年2月7日には単独では初となる武道館LIVE。以後1994年まで通算4度、単独での武道館LIVEを敢行する。

1992年発売のベストアルバム『筋少の大車輪』には、かつてのメンバーが一堂に集結。新録音曲「大釈迦」が収録された。

バンドブームが去った1992年9月、経営難となっていた所属事務所をやめ、翌1993年暮れにはトイズファクトリーに契約を打ち切られる。

バウワウなどを育てた上野義美氏の事務所と契約し新たに動き出す。

1994年に橘高が、翌1995年に大槻がソロデビューするなど、メンバー各自での活動も多くなっていった。

所属レコード会社は1994年にMCAビクター、さらに1996年にマーキュリーミュージックエンタテインメントへと移籍。
活動凍結?それぞれの道へ

1997年、活動凍結前のラストアルバム『最後の聖戦』をリリース。このタイトルになった理由は、大槻が5人での活動に限界を感じたためである。追い打ちをかけるように翌1998年、当時の所属事務所の経営破綻[7]、精神バランスを崩したこと[8][注 2]、メンバーのモチベーション低下[9]等が重なった結果、この頃より大槻はバンドとしての活動限界を感じるようになる[10]


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