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をお願いします。(2019年12月)第88師団
創設1945年(昭和20年)2月28日
廃止1945年(昭和20年)
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位師団
兵種/任務/特性歩兵
人員約20,000名
所在地豊原
編成地樺太上敷香
通称号/略称要(かなめ)
補充担任旭川師管区
上級単位第5方面軍
最終上級単位第5方面軍
担当地域南部樺太
最終位置樺太 豊原
主な戦歴太平洋戦争
(ソ連対日参戦)
(南樺太の戦い)
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第88師団(だいはちじゅうはちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。本稿では、前身の樺太混成旅団についても述べる。 1913年以降、南樺太には日本軍は常駐しない状態が続き、少数の国境警察が警備をしており、非常時には在郷軍人を召集することとなっていた[1]。 南樺太は、第7師団(旭川)の警備区であり、また、北樺太侵攻時には京都師団と第26軍を編成し、2コ師団でオハ油田に向かう侵攻作戦が計画があり、第7師団には常時樺太作戦の研究任務が与えられており、皇土防衛と侵攻作戦の二面性を持ち、直接国境を接する特異な師団であった[1][2]。 北海道は屯田兵以来人口希薄で第7師団は編成以来、定員を自己師管で充員できず、東京、東北から多くを充員に頼っていた。昭和が進むと人口政策が実り第7師団は、やっと自己師管での充員が可能となり、同様に樺太の人口は30万人を超え、丁壮人口も増加しており入営や各種召集点呼を旭川で行うには事務と交通、費用負担が大きくなってきており、特に冬季交通は運航難の指摘され、また郷土部隊設置は青年学校教練等、軍民連携に有利と見られた[1][2]。そしてソビエト連邦との軍事的緊張が高まっており、警備防衛観点からも樺太に常設部隊と連隊区設置が望ましいと判断された[1]。 また、参謀本部では、北樺太作戦だけでなく「勘察加占領作戦」の連続実施、若しは同時実施にも樺太混成旅団を使用する可能性も考慮していた。
沿革