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をお願いします。(2019年12月)第8師団
1915年(大正4年)頃の師団司令部
創設1898年(明治31年)10月1日
廃止1945年(昭和20年)
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位師団
兵種/任務/特性歩兵
所在地弘前-満洲-ハバロフスク地方・アムール州-満洲-フィリピン
編成地弘前
通称号/略称杉
補充担任第8師管・弘前師管・弘前師管区
最終上級単位第41軍
最終位置フィリピン ルソン島モンタルバン
主な戦歴日清-日露-シベリア-満洲事変-太平洋戦争
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第8師団(だいはちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。1898年に立見尚文を初代師団長に弘前で結成。 日清戦争が終り、軍備拡張の必要性から増設された6個師団の一つで、兵士はおもに東北地方出身者から構成された。編成時の所属歩兵連隊は歩兵第5連隊・歩兵第17連隊・歩兵第31連隊・歩兵第32連隊。初代師団長は台湾総督府幕僚参謀長だった立見尚文中将。1898年11月15日に師団司令部、監督部が開庁した[1]。 勝利に終った日清戦争であるが、ロシア・フランス・ドイツによる所謂三国干渉によってロシアとの間に緊張が高まっていた。ロシアとの一戦は避けられないとの予測から陸軍は対露戦を準備し、寒冷地での訓練を第8師団に指示した。これに基づき師団は1902年(明治35年)1月八甲田山における行軍訓練を行ったが、この時死者199名という惨事を起こしている。これが八甲田雪中行軍遭難事件[2][3]である。
概要
歴史
八甲田雪中行軍遭難事件
日露戦争
1904年(明治37年)6月:日露戦争開戦。師団は動員下令となるが戦地には派遣されず、大本営の戦略予備隊に位置付けられる。
大本営は沿海州攻撃用の兵力として拘置していたが、戦争計画に無かった旅順要塞に海軍要望で3コ師団も取られ、全体戦況も芳しくなく、遂に大陸の満洲軍に第8師団を、同じく樺太作戦用の大本営戦略予備の第7師団を旅順へ送ることとなった。
1905年(明治38年)1月に至り:黒溝台会戦に援軍として派遣されるが、ロシア軍に包囲され大きな被害を出した。救援に来た第3師団、第5師団がロシア軍を撃退し第8師団は解囲される(臨時立見軍)
3月:奉天会戦に参加する。
日露戦争後
1910年:朝鮮半島に駐留し、
1921年(大正10年):シベリア出兵に参加する。
大陸戦線
1931年(昭和6年)11月:満洲事変に第8師団において編成の混成第4旅団が「間島省」に応急出動。
1932年(昭和7年) 4月:第8師団本隊 満洲増派。
1933年(昭和8年)
2月17日:軍隊区分で戦車隊.軽装甲車隊.騎兵隊.関東軍自動車隊.混成14旅団主力等で編成した「川原挺進隊」が熱河作戦参加。
3月6日 :朝陽?凌源?平泉?熱河省城承徳入場[4][5]。
1937年(昭和12年)
7月:支那事変勃発。
8月:次々と常設師団が動員されて行く時局、今秋には満洲駐箚が既定であった第8師団では、特設師団の第108師団を先に動員、出征させることになった。
:満洲東部「綏芬河」駐屯
1938年(昭和13年)
1月13日:第3軍の戦闘序列に編入されて「綏陽」に駐屯。
: この頃、今後師団の満洲永駐の内示が出る。
1939年(昭和14年)
5月 :「師団・軽装甲車訓練所
6月16日:騎兵第8連隊を捜索第8連隊に改編。
10月5日:連隊旗宮中へ奉還。
10月 :歩兵第32連隊を、新設第24師団に転出させ三単位編制に改編。
1940年(昭和15年)
7月 :満洲永駐。代替東北常設師団として第57師団を新設。第8師管を改称した弘前師管を管轄した。
12月14日:師団戦車隊を新設[6]。東部満ソ国境警備の主力部隊。
1941年(昭和16年)7月:関東軍特種演習で動員。欠員補充、各部人員.兵器.車両等補充増強、高定員準戦時編成。
1941年(昭和16年)9月19日:第8師団は第25師団とともに、新設第20軍戦闘序列に編入。「掖河」に移駐。
太平洋戦争