第7回スーパーボウル
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第7回スーパーボウル
Super Bowl VII

マイアミ
ドルフィンズ
ワシントン
レッドスキンズ

(AFC代表)(NFC代表)
147

1234


MIA7700

14
WAS0007

7

開催日1973年1月14日
スタジアムロサンゼルス・メモリアル・コロシアム
開催地カリフォルニア州ロサンゼルス
MVPジェイク・スコット, ドルフィンズ
優勝予想Redskins by 1
国歌斉唱シカゴ・ホリーエンジェルズ教会
ハーフタイムミシガン大学マーチングバンド、ウッディー・ハーマン
入場者数90,182
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ドルフィンズレッドスキンズ開催地
アメリカにおけるテレビ放送
ネットワークNBC
実況と解説カート・ガウディ、アル・デロガティス
視聴率42.7 (全米)[1]
占有率72 (全米)
CM広告料
(30秒)8万8千ドル

 < 第6回スーパーボウル第8回 > 

第7回スーパーボウル(Super Bowl VII)は1973年1月14日カリフォルニア州ロサンゼルスロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで開催された試合。AFCチャンピオンであるマイアミ・ドルフィンズNFCチャンピオンであるワシントン・レッドスキンズの対戦。ドルフィンズがレッドスキンズを14-7で破って、スーパーボウル初制覇を果たした。MVPはドルフィンズのセイフティであるジェイク・スコットが受賞した。

スーパーボウルではノーネーム・ディフェンス(トム・ランドリーの発言が由来)[2]と呼ばれた守備陣が第3Qまで相手を無得点に抑え、ガロ・イェプレミアンがFGをブロックされた後、パスを投げようとしてファンブルしたボールをマイク・バスが拾い49ヤードリターンしたタッチダウンによる7点に抑えて勝利、17戦無敗、パーフェクトシーズンでスーパーボウルを制した[3]。それまでのスーパーボウルで最多の90,182人の観客が訪れた[4]
背景
マイアミ・ドルフィンズ詳細は「1972 Miami Dolphins season(英語)」を参照

ドルフィンズはレギュラーシーズン途中にエースQBを欠きながら14勝0敗でシーズンを終えた。第5週の試合でエースQBボブ・グリーシーは右足を骨折し、足首を脱臼した。翌週から38歳のQBアール・モラルが先発し、残り9試合に全勝した。モラルは、この活躍でその年のカムバック賞に選ばれた。モラルはかつてボルチモア・コルツ時代、ドン・シュラヘッドコーチの下でジョニー・ユナイタスの控えQBを務めており、第3回スーパーボウルでは先発出場していた。

ドルフィンズは若い選手たちが多く、スーパーボウルで先発出場した選手のうち、30歳以上は、ニック・ブオニコンティ1人であった。

ドルフィンズは、ラリー・ゾンカ、ジム・キイク、マーキュリー・モリス(前年まではリターナーを務めていたが、キイクから先発ハーフバックの座を奪った。しかしスーパーボウルでは経験豊富なキイクが先発した。)による強力なランニングバック陣を擁した。ゾンカはチームトップの1,117ヤードを走り6TD、キイクは521ヤードを走り5TD、モリスは1000ヤードを走り、NFLトップの12TD、15回のレシーブで168ヤード、キックオフリターンでも334ヤードを記録した。ドルフィンズのラン攻撃はNFL新記録の2960ヤードを獲得し[5]、同一チームで2人の1000ヤードラッシャーが誕生したこともNFL史上初めてのことであった。ドルフィンズはNFL最多の385得点をあげた。

レシーバーのポール・ウォーフィールドは、ラン攻撃が中心のドルフィンズで貴重なディープスリートとして、29回のレシーブで606ヤード(平均20.9ヤード)を獲得した。ドルフィンズのオフェンスラインは、後にプロフットボール殿堂入りを果たすジム・ランガー、ラリー・リトルに率いられた。

ダラス・カウボーイズのヘッドコーチ、トム・ランドリーが名付け親となった、ノーネームディフェンスと呼ばれたディフェンスは、後に殿堂入りをするLBニック・ブオニコンティに率いられ、NFL最少の171失点でシーズンを終えた。またNFL2位の26インターセプトをあげた。Sジェイク・スコットが5インターセプト、ロイド・マンフォードが4インターセプトをあげた。またディック・アンダーソンは3インターセプトに加えてNFLトップの5ファンブルリカバーをマークした。

シーズン中にディフェンスラインマンに負傷者が出たため、ディフェンスコーディネーター、ビル・アーンスパーガーの考案した53ディフェンスを(背番号53のボブ・マチソンを4-3ディフェンスのディフェンシブエンドで起用したり、3-4ディフェンスのラインバッカーとして起用した。)用いた。マニー・フェルナンデスがノーズタックルを務めた。マチソンは、ラインバッカーとして起用された際、パスラッシュやパスカバーで活躍した。LBダグ・スウィフトは3インターセプト、1ファンブルリカバーを記録した。

ドルフィンズはレギュラーシーズンを無敗で終えたが、これは1934年1942年シカゴ・ベアーズしか記録しておらず、ベアーズはいずれの年もNFLチャンピオンシップゲームで敗れていた。なお、クリーブランド・ブラウンズは、AAFC時代の1948年に無敗でチャンピオンとなった。
ワシントン・レッドスキンズ詳細は「1972 Washington Redskins season(英語)」を参照

1970年、6勝8敗に終わった後、レッドスキンズは、ジョージ・アレンをヘッドコーチに迎えた。勝利にはベテラン選手が必要というのがアレンのコーチ哲学であり、若い選手やドラフト指名権を経験豊富なベテラン選手とトレードし、NFLで最も平均年齢の高いチーム(先発選手の平均年齢31歳)を作り上げた。チームは1971年、9勝4敗1分、1972年は11勝3敗でシーズンを終えた。

レッドスキンズの先発QBは33歳のビリー・キルマーであり、パス225回中120回成功、1648ヤードを獲得し、NFLトップの19TDをあげる一方、わずか11インターセプトで、NFLトップのQBレイティング84.8でシーズンを終えた。キルマーはシーズン開幕から3試合先発したがニューイングランド・ペイトリオッツに23-24で敗れた後、38歳のベテランソニー・ジャーゲンセンに先発の座を奪われた[6]。ジャーゲンセンがアキレス腱を断裂し、シーズン絶望となったため、先発に返り咲いた。強力なラン攻撃が2人のランニングバックによって行われ、ラリー・ブラウンは285回のランでNFCトップ、NFL2位の1216ヤードを走るとともに、32回のレシーブで473ヤードを獲得、12TDをあげて、シーズンMVP、NFL最優秀攻撃選手に選ばれた[5]。チャーリー・ハラウェイは、148回のランで567ヤードを走った。後の殿堂入り選手、WRチャーリー・テイラーは、WRロイ・ジェファーソンとともにディープスリートとして起用され、合計84回のレシーブで1223ヤードを獲得、10TDをあげた。

ディフェンスではLBクリス・ハンバーガーが4インターセプト、1TD、CBパット・フィッシャーが4インターセプト、マイク・バスが3インターセプトをあげた。


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