1291年以前
第1回
1101年
ノルウェー
ヴェネツィア
第2回
第3回
1197年
第4回
第5回
第6回
バロン
第7回
第8回
第9回
1291年以降
スミルナ (1343?1351)
アレクサンドリア (1365)
サヴォイア (1366)
マーディア (1390)
ニコポリス (1396)
ヴァルナ (1443)
オトラント (1481)
北方十字軍
ヴェンド (1147)
スウェーデン
カルマル(1123)
1150年
1249年
1293年
リヴォニア (1198?1290)
プロイセン (1217?1274)
ノヴゴロド (1241?1242)
リトアニア (1283?1410)
民衆十字軍
民衆 (1096年)
少年 (1212)
羊飼い (1251)
貧者 (1309)
羊飼い (1320)
対キリスト教徒/異端十字軍
ボスニア (1235?1241)
アルビジョア派 (1209?1229)
アラゴン (1284/5)
ディスペンサー (1382/3)
フス派 (1419?1434)
レコンキスタ (718年-1492年)
バルバストロ (1063)
バレアレス (1113-1115)
ナバス・デ・トロサ (1212)
第5回十字軍(だい5かいじゅうじぐん、1217年 - 1221年)は、ローマ教皇主導で行われた最後の十字軍。アイユーブ朝の本拠地エジプトの攻略を目指しダミエッタ(ディムヤート)の占領に成功したが、カイロ攻略に失敗し占領地を返却して撤退した。 1204年にコンスタンティノープルを攻略した第4回十字軍が、現地での争いに忙殺され、エルサレム攻略に向かわないのに失望したローマ教皇インノケンティウス3世は、1213年の教皇教書で新たな十字軍の招集を呼びかけ、1215年の第4ラテラン公会議で正式に発布した。 この時点では、神聖ローマ帝国においては前年のブービーヌの戦いに敗れたヴェルフ家のオットー4世が失脚し、教皇が支持するホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世が名実共にローマ王となり、フランス南部におけるアルビジョア十字軍もトゥールーズ伯レーモン親子の亡命により一旦収束しており、西欧は一致して十字軍を派遣できる状況と思われた[要出典]。 しかし、1216年にはレーモン親子の帰還によりアルビジョワ十字軍の戦いは再燃し、従来から十字軍の中心だったフランスの騎士達は第5回十字軍に参加する余裕がなかった。
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