第5回十字軍
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第5回十字軍










十字軍

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ノルウェー

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1291年以降

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北方十字軍

ヴェンド (1147)

スウェーデン

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1249年

1293年


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ノヴゴロド (1241?1242)

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民衆 (1096年)

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貧者 (1309)

羊飼い (1320)

対キリスト教徒/異端十字軍

ボスニア (1235?1241)

アルビジョア派 (1209?1229)

アラゴン (1284/5)

ディスペンサー (1382/3)

フス派 (1419?1434)

レコンキスタ (718年-1492年)

バルバストロ (1063)

バレアレス (1113-1115)

ナバス・デ・トロサ (1212)

第5回十字軍(だい5かいじゅうじぐん、1217年 - 1221年)は、ローマ教皇主導で行われた最後の十字軍アイユーブ朝の本拠地エジプトの攻略を目指しダミエッタ(ディムヤート)の占領に成功したが、カイロ攻略に失敗し占領地を返却して撤退した。
背景

1204年コンスタンティノープルを攻略した第4回十字軍が、現地での争いに忙殺され、エルサレム攻略に向かわないのに失望したローマ教皇インノケンティウス3世は、1213年の教皇教書で新たな十字軍の招集を呼びかけ、1215年第4ラテラン公会議で正式に発布した。

この時点では、神聖ローマ帝国においては前年のブービーヌの戦いに敗れたヴェルフ家オットー4世が失脚し、教皇が支持するホーエンシュタウフェン家フリードリヒ2世が名実共にローマ王となり、フランス南部におけるアルビジョア十字軍もトゥールーズ伯レーモン親子の亡命により一旦収束しており、西欧は一致して十字軍を派遣できる状況と思われた[要出典]。

しかし、1216年にはレーモン親子の帰還によりアルビジョワ十字軍の戦いは再燃し、従来から十字軍の中心だったフランスの騎士達は第5回十字軍に参加する余裕がなかった。


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