第4歩兵師団_(アメリカ軍)
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第4歩兵師団
肩章
活動期間1917年12月10日 - 1921年9月21日
1940年6月1日 - 1946年3月12日
1947年7月15日 - 現在
所属政体 アメリカ合衆国
所属組織アメリカ陸軍
部隊編制単位師団
兵科歩兵
所在地フォート・カーソン
愛称アイヴィー
アイアン・ホース
標語ステッドファスト・アンド・ロイヤル
上級単位アメリカ陸軍総軍
最終上級単位第3軍団
主な戦歴第一次世界大戦
第二次世界大戦
ベトナム戦争
イラク戦争
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第4歩兵師団(英語: U.S.Army 4th Infantry Division)は、アメリカ陸軍師団の一つ。
目次

1 概要

2 概歴

2.1 第一次世界大戦

2.2 第二次世界大戦

2.3 ベトナム戦争

2.4 イラク戦争


3 編制

4 外部リンク

概要

第4歩兵師団は、第一次世界大戦初期に編成されて以来、第二次世界大戦ベトナム戦争イラク戦争に参加した歴戦の師団である。

現在は、3個重旅団戦闘団(HBCT)と1個歩兵旅団戦闘団(IBCT)から編成されて、先進的なC4Iシステムと強力な火力を備えた機甲師団となっており、アメリカ陸軍の主力打撃部隊である第3軍団の一翼を担っている。
概歴
第一次世界大戦

第4歩兵師団は、1917年12月10日ノースカロライナ州キャンプ・グリーンにおいて結成された。これは、4月6日にアメリカが第一次世界大戦に参加したことに伴う、急速な軍の拡充に伴って行なわれたものであった。師団は第1軍の指揮下にヴェルダン南方に移動し、第5軍団に配属されて、1918年9月12日よりサン=ミエルの戦いに参加した。これに続き、9月26日より、師団は第1次大戦で最後の大規模戦闘であるムーズ=アルゴンヌ攻勢に参加した。師団は第3軍団に配属替えされており、その左翼を構成していた。ムーズ=アルゴンヌ攻勢において、第4師団を含む大部分のアメリカ軍は戦術目標を達成したものの、第4師団の左翼に連携していた第79師団がモンフォルコンにおいて遅滞されたことにより、作戦目標の達成には至らなかった。

11月11日、休戦が布告された。師団が第1次大戦において蒙った損害は、戦死 2,611名、戦傷 9,895名であった。

師団はその後、ドイツにおいて占領業務に従事したのち、7月より撤収を開始し、31日までに全部隊がアメリカに帰国した。その後、陸軍の縮小に伴い、1921年9月21日、師団は編成解除された。
第二次世界大戦 ユタ・ビーチで堤防を乗り越える第8歩兵連隊の兵士。

1940年6月1日、師団は復帰編成され、8月1日、自動車化師団として再編制された。師団は第2機甲師団とともに第1機甲軍団の隷下に入り、1944年初頭、イギリスに移動した。

6月6日、師団はノルマンディー上陸作戦に参加し、オマール・ブラッドレー将軍指揮の第1軍の一部として、師団長コリンズ将軍の指揮下にユタ・ビーチに上陸した。この上陸そのものは、200名の損害を出したのみで成功(有名なオマハ・ビーチにおいては2,400名が戦死した)が、事前に行なわれた予行演習の際にSボートの攻撃で749名が死亡しているほか、第4歩兵師団と連携して空挺作戦を展開した第82空挺師団および第101空挺師団はかなり大きな損害を受けており、総合的に見れば、必ずしも出血が少なかったわけではなかった。なお、後に朝鮮戦争で活躍するジェームズ・ヴァン・フリートは、この際、第8歩兵連隊長を務めていたほか、第12連隊には、のちに小説家として有名になるJ・D・サリンジャーが、一兵卒として従軍していた。6月25日、師団はシェルブールを制圧したのち、8月下旬にはパリの解放を掩護した。この際、第22歩兵連隊には、著名な文豪であるアーネスト・ヘミングウェイが随行していた。

その後、師団はベルギー方向に向けて前進し、ジークフリート線に対する攻撃に参加した。これはヒュルトゲンの森の戦いとして知られるものであり、第二次世界大戦中、ドイツ国内で最も長い戦いであった。


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