第3回全日本フォークジャンボリー
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第3回全日本フォークジャンボリーとは1971年8月7日から9日にかけて岐阜県恵那郡坂下町(現在の中津川市)にある椛の湖(はなのこ)の湖畔で開催された第3回の全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)である。
概説

メインステージとサブステージがあり、サブステージはフォークとロックの二つに分かれ、さらに黒テントや、野外映画館などもあり、面倒な構成となっていた[1]。またロックのサブステージに高田渡なぎら健壱が出演するなど非常に曖昧で、メインとサブステージの分け方にも出演者の間で不満が募り、出演順を巡ってトラブルが繰り返された[2]。この年初参加した吉田拓郎は、「URCの連中より、自分の方が売れている。なぜ俺がサブステージなんだ」と関西系のURCのシンガーとぶつかり、東京対大阪の様相を呈した[3]。このコンサートの模様は2つのレコード会社によってレコーディングされ、会場内にテレビが持ち込まれていたが、これに一部の客が"主催者側の姿勢に疑問あり"と騒ぎ始めた。

2日目の夕方、数百人にも満たないサブステージで演奏をはじめた吉田拓郎は、商業主義の乱入に反発し盛んに観客を煽った[4][5]。歌い始めた吉田のPAにトラブルが発生したが小室等六文銭をステージに呼びマイク無しで演奏を続行。何かに憑かれたように「人間なんて」を延々と歌う吉田のもとに客が次第に集まり始め、その観客を巻き込んでの歌声が広がっていき、その数はどんどん膨らんでいった[6][7]。「人間なんて」の単純な歌詞の繰り返しには呪詛的な要素もあるため、酒の酔いも手伝い、一種のトランス状態が現出[6][7]、「人間なんて」の演奏を2時間近く続けるうち熱狂した観客がさらに増え1,000人以上になった[8]。PAもなく吉田の声も出なくなってきたころ、観客は聴こえづらいとばかり前に行きたがり、前方にいた人が押されいつ事故が起こってもおかしくない状況に至ったため、小室の「ここでやることは終わった。俺たちは倒れる。みんなメインステージに行こう!」の言葉が引き金となり観客がメインステージへとなだれ込んだ[2][6][9][8]

幸いその時点で大きな騒ぎにはならなかったものの、トイレも少なく、食事も不足している中、前日の雨で会場の環境が悪かった(会場は屋根もなく全面赤土で雨が降ったためベタベタしていた)こともあり、場の雰囲気は荒れていた[8]。20時過ぎに岡林信康三上寛が出演することで観客に大受けして、一旦は騒ぎも落ち着いていたが、その後、日野皓正安田南鈴木勲トリオというジャズの流れの中で、「どうしてフォークジャンボリーなのに、フォークじゃない連中が出てるんだ」という不満の声が勃発。1曲目が終わってざわついている会場に向かって、安田南が「文句あるんなら上がってらっしゃいよ」と言ったのをきっかけに、ステージにベ平連系の若者を中心とした観客数十人が上がり込んで占拠した[8]。トマトを投げつけられた安田南の演奏は中止され、若者はマイクの奪い合いで混乱、スピーカーからほとばしる叫びは、湖面から山肌をも震わせる程であったといわれる。さらに安田に対して「(演奏)やめろ!!」「帰れ!!」といったブーイングの声はおろか、コカ・コーラのガラスの空き瓶などが飛び交ったり[10]、舞台を目がけて花火が打ち込まれ会場は騒然、主催者との討論会となりそのままコンサートも自然流会してしまった[11]

暴徒化した観客が岡林信康を目がけて殺到したが、岡林は会場に残るつもりでいた。しかしスタッフが説得し岡林を帰したため、吉田との主役交代をより印象付ける結果となった[2][12][13]

北山修(きたやま おさむ)は「拓郎と岡林の両陣営に観客がわかれて、会場は殺気だった雰囲気となり、『帰れ』『帰れ』の怒号が飛び交う…。僕は観客としての参加でしたが、恐怖を感じましたね」などと述べている[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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