第2SS装甲師団
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第2SS装甲師団 ダス・ライヒ
2.SS-Panzer-Division
"Das Reich"
第2SS装甲師団の師団記章。
ルーン文字で解放・独立を意味するヴォルフスアンゲル
創設1939年10月10日
廃止1945年5月8日
再編成1943年(装甲師団に改編)
所属政体 ナチス・ドイツ
所属組織 武装親衛隊
部隊編制単位師団
兵科装甲擲弾兵(機械化歩兵)
(1939?1943)
装甲部隊
(1943?1945)
通称号/略称「ダス・ライヒ」(国家)
(Das Reich)
標語「忠誠こそわが名誉」
(Meine Ehre heist Treue)
上級単位

第1SS装甲軍団
第2SS装甲軍団など
最終上級単位 第6SS装甲軍
(1944年9月?)
主な戦歴第二次世界大戦
フランス侵攻
バルバロッサ作戦
(モスクワの戦い)
クルスクの戦い
ノルマンディー上陸作戦
バルジの戦い
春の目覚め作戦
特記事項オラドゥール=シュル=グラヌでの住民虐殺に関与
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第2SS装甲師団 ダス・ライヒ(だいにSSそうこうしだん―、2. SS-Panzer-Division "Das Reich")は、ナチス・ドイツ武装親衛隊の部隊のひとつ。精鋭部隊として、第二次世界大戦の主要な戦闘で大きな役割を果たした。部隊名にある「ライヒ」は祖国国家帝国などを意味する。1939年にSS-VT 師団として編成され、変遷を経て1943年にSS第2装甲師団 ダス・ライヒに発展した。
創設・ポーランド戦・フランス戦ドイッチュラント連隊の袖章

1939年のポーランド侵攻では、親衛隊特務部隊はまとまった一つの部隊としてではなく、いくつかの陸軍部隊に分散されて最初の戦火を経験した。ポーランド戦が終了した1939年10月10日、親衛隊特務部隊は一つにまとめられ、SS-VT 師団(SS特務師団)が設立された。その構成はSS連隊ドイッチュラント(SS-Standarte Deutschland)、SS連隊ゲルマニア(SS-Standarte Germania)、SS連隊デア・フューラー(SS-Standarte Der Fuhrer)、通信大隊、偵察大隊である。

フランス戦ではSS-VT 師団としてロッテルダム攻撃に加わった。ロッテルダム攻略後、師団は他の師団とともに、連合軍をオランダ・ゼーラント周辺に押し込む任務を受けた。次に、陸軍部隊が制圧した地域で一部残る抵抗拠点を潰す任務を受けた。師団はフランスに移され、強固に防御された運河を突破する支援を行い、パリへの進軍に参加した。戦いの終わりには、部隊はスペインとの国境近くまで前進していた。

フランス戦後に、部隊は名称をSS-VT 師団から、SS師団ライヒ(SS-Division "Reich")と変更した。フランス降伏後、師団はイギリス本土侵攻のためにフランスに留まったが、英本土侵攻作戦は延期された。そのため、1941年に師団はユーゴスラビアギリシア侵攻のためのマリータ作戦の準備にルーマニアへ移動した。
ユーゴスラビア占領1941年撮影

1941年3月26日、枢軸国の一員であるユーゴスラビアで反独クーデターが起こり、親独政権が倒れた。4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビアへ侵入した。SS師団ライヒは、ハンガリーよりユーゴスラビアの首都ベオグラードへ進軍した。注目すべき戦果として、ベオグラードを占領した。

1941年4月12日の朝、SS大尉フリッツ・クリンゲンベルクの指揮するオートバイ兵中隊は、パンチェヴォからドナウ川の土手沿いにベオグラードに接近した。クリンゲンベルクは同市に突入することに不安を感じた。川が増水し渡河する橋がなく、オートバイ兵中隊は架橋装備や浮き橋も欠いていた。クリンゲンベルクは川の北の土手でモーターボートを見つけ、部下とともにドナウ川を渡った。対岸に付いた後、2人を増援のために戻し、6人でベオグラードのダウンタウンに進んだ。町に入った後、クリンゲンベルクは20人のユーゴスラビア兵と遭遇し、彼らは一発も撃つことなく降伏した。その後、クリンゲンベルクは短い戦闘の後、ユーゴスラビア軍の車両を鹵獲し、それを利用してユーゴスラビアの軍務省へ向かった。しかし、彼らがビルに到着した時、ビルは放棄されていた。おそらく、軍司令部はドイツ空軍の空襲により首都から撤退したものと考えられる。ベオグラードには降伏交渉する軍の指揮機能が残っていなかったため、クリンゲンベルクはベオグラードのドイツ大使館へ向かった。都市の占領を宣言するため大きな鉤十字を広げ、大使館の上に掲げた。2時間後、ベオグラード市長が大使館を訪れ、クリンゲンベルクに降伏した。ドイツ軍の主力部隊が入城するまで1日待たないといけなかった。ベオグラード占領の功績で、クリンゲンベルクは騎士鉄十字章を受けた。

ベオグラード占領後、師団はソビエト侵攻作戦の一端を担うためにポーランドへ移動した。
ソビエト侵攻クルスクの戦い、ティーガーI戦車を伴った「ダス・ライヒ」装甲擲弾兵師団の兵士(1943年6月)

バルバロッサ作戦には、師団はヴォック元帥の中央軍集団の一員として参加した。グデーリアン上級大将指揮下の第2装甲集団に所属する、第46軍団(自動車化)を構成した。ビヤリストック包囲戦、ミンスク包囲戦に参加し、スモレンスク包囲戦、その後のスモレンスク近傍のエリニャの戦い(エリニャ攻勢)や、キエフ包囲戦にも参加している。その後、所属する第2装甲集団(後に第2装甲軍に昇格)は再度東進した。泥濘に苦しみながらもオリョルを経由し、ブリヤンスク・ウィヤジマ複合包囲戦にも参加した。さらに、レニングラード攻撃を中止して鉄道輸送されたヘープナー上級大将の第4装甲軍第40軍団に所属し、モスクワ攻略作戦であるタイフーン作戦に参加した。クリン南方からイストラを経て1941年11月ドイツ軍の最高進出点である、ソビエトの首都まで数マイルの地点まで迫った。ソビエトの首都を視野に納める地点まで前進した時、天候の悪化と大きな損失とソビエトの冬季反攻により師団は押し戻された。多大な損失を被った後、師団は前線から引き抜かれ、フランスへ送られた。師団の一部は東部戦線に残され、カンプフグルッペ・オステンドルフ (KG Ostendorff) の名前で呼ばれた。オステンドルフは1942年6月に師団の本体と合流した。1942年11月、師団の一部はトゥーロンフランス艦隊の自沈を防ぐ試みに参加した。その後、師団は、装甲擲弾兵師団へ格上げされ、SS装甲擲弾兵師団ダス・ライヒと改名された。SS第2戦車連隊“ダスライヒ”第8中隊のティーガー戦車(1943年7月)

1943年の初め、ダス・ライヒは東部戦線に戻された。配置はハリコフ正面の、崩壊の危機にある戦区の補強だった。ハリコフの再占領後、ダス・ライヒは他の師団とともに、クルスクの戦いに参加した。ダス・ライヒは、突出部の南側の攻撃を担い40マイル前進したが、作戦が中止されベルゴロドに後退した。その後、ミウス河、ハリコフ、キエフと転戦した。10月に第2SS装甲師団ダス・ライヒと改称。

続く戦闘により連隊規模まで消耗した為、カンプフグルッペ ダス・ライヒ(Kampfgruppe SS-Panzerdivision Das Reich)又はカンプフグルッペ ラマーディング(KG Lammerding)と呼ばれた。1944年2月、師団は一部の部隊を東部戦線に残して前線から引き抜かれ、フランスの南部の村モントーバンで装備と人員の補充を受け再編成が行われた。


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