第28SS義勇擲弾兵師団
第28SS義勇擲弾兵師団「ヴァロニェン」(ワロン第1)の師団章。ワロニエン地方の独立を目指すREX党のXを刀と剣で表したと思われるエンブレム[1]
創設1944年10月19日
廃止1945年5月8日
国籍 ナチス・ドイツ
所属 武装親衛隊
規模師団(実際は旅団規模)
兵種擲弾兵
人員 ワロン人、ドイツ人
所在地
上級部隊第3ゲルマンSS装甲軍団(1945年2月?3月)
SS師団集団「ミュラー」(1945年4月15日)
愛称ヴァロニェン
モットー
主な戦歴独ソ戦
(ドイツ陸軍第373ワロン歩兵大隊時代)
グロモヴァヤ=バルカの戦い
ブラウ作戦
(SS突撃旅団時代)
コルスン包囲戦
エストニアの戦い
(第28SS義勇擲弾兵師団時代)
「ゾンネンヴェンデ」作戦
ポメラニアの戦い
アルトダム橋頭堡防衛戦
シラースドルフ反撃作戦
第28SS義勇擲弾兵師団「ヴァロニェン」(ワロン第1)(独:28. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division ?Wallonien“ (wallonische Nr. 1))は、第二次世界大戦期のナチス・ドイツ武装親衛隊の師団。ベルギー王国ワロン地域(フランス語圏)の住民であるワロン人のうち、ドイツ軍に所属して共産主義(ソビエト連邦)と戦うことを志願した義勇兵によって構成されていた。師団長はベルギーのカトリック系反共主義ファシズム政党「レクシズム」(Rexisme
)の指導者レオン・デグレル(Leon Degrelle)。師団の原点である「ワロニー部隊」(Legion Wallonie)は1941年10月から第373ワロン歩兵大隊(Wallonische Infanteriebataillon 373)としてドイツ国防軍(ドイツ陸軍)に所属し、1942年秋まで東部戦線に従軍。1943年6月に陸軍から武装親衛隊に移籍し、7月にSS突撃旅団「ヴァロニェン」(SS-Sturmbrigade ?Wallonien“)と改称。1943年秋から1944年2月まで第5SS装甲師団「ヴィーキング」の麾下部隊としてウクライナ・チェルカースィ戦線(コルスン包囲戦)でパルチザンやソビエト赤軍と死闘を繰り広げた。
1944年春から旅団は再編制に着手したが、7月末に旅団の一部によって臨時編制された「ヴァロニェン」戦闘団(Kampfgruppe Wallonien)が1944年8月のエストニア戦線に投入された。そして1944年秋に旅団は第28SS義勇擲弾兵師団「ヴァロニェン」(ワロン第1)へと昇格し、独ソ戦末期の1945年2月から終戦に至るまでポメラニア戦線?オーデル川西岸でソビエト赤軍と戦い続けた。
なお、名称こそ師団であるがその戦力は旅団規模に過ぎなかった。
ワロン人義勇兵部隊創設の背景
レオン・デグレルとレクシズムベルギー王国ワロン地域レクシズムの党旗
1930年代、ベルギー王国のフランス語圏であるワロン地域で大小様々な規模のファシズム団体が発足した。その中でも特に名を馳せたのが、カトリック系出版社の経営者レオン・デグレル(Leon Degrelle)が1935年11月2日に活動を開始した[2]レクシズム(Rexisme)という反共政治団体であった。レクシズムはドイツにおける国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の隆盛ぶりに感化されてベルギー国内で同様の変化を求め、ワロン人の独立国家設立のために活動した。
1940年5月10日、ドイツが西方戦役の一環としてベルギー侵攻を開始した時、ベルギー当局はかねてから親独・親イタリア的であったデグレルをベルギーの潜在的な敵と見なし、彼を逮捕した。デグレルは同様に逮捕されたレクシズム関係者ともどもフランスへ送られ、そのうち21名が銃殺されたにもかかわらず、奇跡的にも処刑を免れた。後にデグレルはスペイン国境付近のル・ヴェルネ収容所(Vernet d'Ariege)に収監されたが、フランスがドイツに降伏した後の1940年7月20日にドイツ軍によって解放された[3]。
ドイツ軍占領下のベルギーに戻ったデグレルはレクシズムの活動を再開し、ワロン人の独立のための活動に着手した。もっとも、デグレルの努力にもかかわらず、ドイツはゲルマン民族であるフラマン人(ベルギーのフランデレン地域の住民)の独立を支援していたため、非ゲルマン民族であるワロン人が主体のレクシズムを重要視していなかった。
「ワロニー部隊」バート・テルツSS士官学校にて教育を受けるワロン人下士官
しかし、1941年6月22日にドイツ軍がソビエト侵攻作戦「バルバロッサ」を開始すると、7月初旬にベルリン当局はレクシズムに対し、ワロン人から成る反共義勇部隊の創設を許可した[4]。そこでデグレルは7月20日の演説で自分自身も義勇部隊に参加し、共産主義と戦うことを宣言した。レクシズムの準軍事組織「FC」(Formations de Combat)の隊員が中心となった部隊は「ワロン義勇軍」(Corps Franc Wallonie)、後に「ワロニー部隊」(Legion Wallonie)と呼ばれた。
デグレルは将校として同義勇部隊に入隊する旨の希望を出していたが、彼には軍事的経験・知識が不足していた[注 1]ため、その願いはドイツ側に却下された。やむをえずデグレルは兵卒(兼レクシズム指導者)として部隊に加わり、部隊の指揮官には元ベルギー植民地軍の退役将校ジョルジュ・ジャコブ上級大尉(Captain-Commandant Georges Jacobs)[人物 1]が任命された。
1941年8月8日、860名のワロン人義勇兵[5]が所属する部隊はブリュッセル北駅(Gare de Nord)から列車に乗り込み、基礎訓練のために東へ向かった。8月12日にはメゼリッツ(Meseritz、現ミエンジジェチMi?dzyrzecz)に到着し、8月22日にはドイツ国防軍司令官としてのアドルフ・ヒトラーに忠誠を誓う宣誓式を執り行った(ちなみに、28日にはデグレル個人に対して忠誠を誓う宣誓式が執り行われた)[6]。この時期のワロン人部隊の編制は次の通り[7][注 2]。
ワロニー部隊(Legion Wallonie) 1941年8月?12月
大隊指揮官 ジョルジュ・ジャコブ上級大尉(Capt-Cdt. Georges Jacobs)
参謀 リュシアン・リッペール少尉(Lt. Lucien Lippert)
各種医療部隊、カトリック従軍司祭、ドイツ人連絡将校
第1中隊 アルベール・ヴァン・ダム上級大尉(Capt-Cdt. Albert Van Damme)
第2中隊 ウィリィ・エヴェール大尉(Hptm. Willy Heyvaert)
第3中隊 ゲオルゲス・チェーホフ大尉(Hptm. Georges Tchekhoff)
第4中隊 ルネ・デュプレ大尉(Hptm. Rene Dupres)
1941年10月初旬、一通りの訓練を完了したワロン人義勇兵部隊は「第373ワロン歩兵大隊」(Wallonische Infanteriebataillon 373)としてドイツ陸軍に加わり、ウクライナで作戦行動中の南方軍集団(Heeresgruppe Sud)の所属となった。