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第26回主要国首脳会議
沖縄サミット
九州・沖縄サミット
サミットが開催された万国津梁館
開催国日本
日程7月21日-23日
会場万国津梁館
都市沖縄県名護市
参加者 日本
フランス
アメリカ合衆国
イギリス
ドイツ
イタリア
カナダ
ロシア
欧州連合
前回第25回主要国首脳会議(ケルン・サミット)
次回第27回主要国首脳会議(ジェノバ・サミット)
第26回主要国首脳会議(だい26かいしゅようこくしゅのうかいぎ)は、2000年(平成12年)7月21日から23日まで日本の沖縄県名護市の万国津梁館で開催された主要国首脳会議。20世紀最後のサミットであり、日本初の地方開催のサミットでもある。通称沖縄サミット、九州・沖縄サミット、九州サミット。
出席首脳沖縄サミット出席の各国首脳 左からジュリアーノ・アマート(伊)、トニー・ブレア(英)、ウラジーミル・プーチン(露)、ビル・クリントン(米)、森喜朗(日)、ジャック・シラク(仏)、ジャン・クレティエン(加)(2000年7月22日、万国津梁館で撮影)
出席首脳の一覧(当時、席次順) 日本で開催されるサミットとしては、初めての地方開催であり、札幌、千葉、横浜、大阪、広島、福岡、宮崎、沖縄の8つの地域が立候補をした。最終的に開催地に選ばれた沖縄は、最後発の立候補地であり、一番不利とみられていたほか、直前の報道でも福岡や宮崎が有力とされ、実際に沖縄に決まった時には、正直言って諦めていたという本音が関係者から出たくらいだった。沖縄が開催地に決まったことは、大逆転と報道され、大きな驚きを与えたが、沖縄が歴史的に苦痛を味わった点や各界を挙げての熱い要請行動があったことなどを指摘した上での沖縄開催の決定は、沖縄はもとより、全国の報道機関等からも小渕前総理大臣の英断と高く評価され、「久々に政治をみた」と評した新聞もあった。
森喜朗(議長・日本国内閣総理大臣)
ジャック・シラク(フランス共和国大統領)
ビル・クリントン(アメリカ合衆国大統領)
トニー・ブレア(イギリス首相)
ゲアハルト・シュレーダー(ドイツ連邦首相)
ジュリアーノ・アマート(イタリア首相)
ジャン・クレティエン(カナダ首相)
ウラジーミル・プーチン(ロシア連邦大統領)
ロマーノ・プローディ(欧州委員会委員長)
その他
会議に先立ち、7月8日に福岡県福岡市の福岡市博物館で蔵相会合が、12日と13日には宮崎県宮崎市のシーガイアで外相会合が行われた。
九州・沖縄サミットのイメージソングには安室奈美恵の「NEVER END」が採用され、歓迎夕食会で熱唱した。なお、売り上げの一部がユニセフへ寄付されていた。
各国首脳に贈答用として琉球リカちゃんの別注モデルサミットリカちゃん
第26回主要国首脳会議を記念して二千円紙幣が発行された。沖縄にちなみ紙面には守礼門が描かれている。
真夏の開催だった為、警備の警官には熱中症、日射病対策で帽子に白いカバーが配布され、警備用に日射しを遮るテントが配備された。
サミット開催の為に沖縄自動車道の西原JCTが開通され、那覇空港自動車道南風原道路と接続。那覇空港から主会場であるザ・ブセナテラス、万国津梁館のある名護市までの移動の利便性が増した。
サミット開催の為に沖縄国際海洋博覧会以降整備されていなかった那覇空港を大整備した。
ドイツのシュレーダー首相は、専用機で宮古島に飛び、以前ドイツ人を助けた、所縁のうえのドイツ文化村を訪れた。その道路はシュレーダー道路と名付けられた。
オフィシャル携帯電話として、発売前のNTTドコモのN502itが導入されていた。
沖縄での開催を決定した小渕恵三総理大臣は、サミット前の2000年4月に突如脳梗塞を発症して昏睡状態に陥り、職務不能のために、内閣総辞職によって総理大臣を退任した。その後、回復することのないまま、5月に死去したため、沖縄サミットに出席することは叶わなかった。小渕の死去を受けて、村山富市が行った追悼演説では、小渕が沖縄サミット開催の決断を下したことが賞賛されている。
ホスト国首相の森喜朗がクリントンに対して出鱈目な英語の挨拶を行ったという報道が、サミットへの揶揄と併せて週刊文春により報じられた[1]。