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長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。
特に慶応元年(1865年)5月の江戸幕府14代将軍徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討は「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的に捉えた場合は四境戦争と呼ぶ向きもある。 第一次長州征討 以下、年の記述がない場合は日付は1864年とする。 7月23日、朝廷は幕府へ対して長州追討の勅命を発した。幕府は長州藩主毛利敬親と養嗣子の定広(後の元徳)に禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張藩・越前藩および西国諸藩から征長軍を編成した。動員された藩の数は最終的に35藩、総勢15万人とされる。8月13日、諸藩の攻め口が定められ五道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)から、萩城のある萩ではなく藩主父子のいる山口へ向かうと決定した。 征長総督は尾張藩の前々藩主である徳川慶勝(7日に紀州藩主徳川茂承から変更)。副総督は越前藩主松平茂昭が任命された。総督は征長について将軍から全権委任をうけ征長軍に対する軍事指揮権を掌握する。 10月22日、大坂城にて征長軍は軍議を開き、11月11日までに各自は攻め口に着陣し、1週間後の18日に攻撃を開始すると決定した。
目次
1 第一次長州征討
1.1 征長軍の動き
1.2 長州藩の動き
1.3 元治の内乱と征長軍の解兵
2 第二次長州征討に至るまで
2.1 幕府側の動き
2.2 長州側の動き
2.3 幕長の談判決裂
3 第二次長州征討
3.1 戦況の様子
3.2 将軍空位期の中央政局
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連書籍
6 外部リンク
第一次長州征討
坂本龍馬によって作成されたとされる長州征討の図。
戦争:長州征討
年月日:(旧暦)元治元年7月23日 - 12月27日
(グレゴリオ暦)1864年8月24日 - 1865年1月24日
場所: 日本、周防国・長門国
結果:長州藩3家老の切腹や4参謀の斬首、山口城の破却など。
交戦勢力
江戸幕府 長州藩
指導者・指揮官
徳川慶勝
松平茂昭
西郷隆盛
毛利敬親
毛利元徳
吉川経幹
戦力
約15万人不明
損害
直接の戦闘行為・被害なし直接の戦闘行為・被害なし
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幕府陸軍(1866年) 西洋式軍装に身を包んだ幕府軍(1865年) 長州藩奇兵隊
征長軍の動き