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アロー戦争
第二次アヘン戦争
大沽砲台へ攻撃したイギリス軍の67歩兵隊
時1856年 - 1860年
場所大清帝国(現在の中国)
結果イギリス、フランス、アメリカ合衆国連合軍の勝利。天津条約、北京条約の締結。
衝突した勢力
清 イギリス
フランス帝国
アメリカ合衆国
指揮官
センゲリンチン ヴィクトリア
パーマストン子爵
エルギン伯爵ジェイムズ・ブルース
ナポレオン3世
ジャン・バティスト・ルイ・グロ
フランクリン・ピアース
アロー戦争(アローせんそう、中: 第二次鴉片戰爭、英: Arrow War)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である[1][2]。戦争の理由の一つであった、中国人による多くのイギリス人との衝突のうち、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため、日本ではアロー戦争と呼称される場合が多い。また、アヘン戦争に続きアヘンの密貿易に関連して起きた二度目の戦争であることから第二次アヘン戦争(Second Opium War)とも呼ばれる[1]。この戦争で清は再び敗北し、不平等条約である天津条約や北京条約を締結させられ、アヘン輸入の合法化を強いられることになった。 1839年9月に武力行使が始まったアヘン戦争の講和条約として、1842年に締結された南京条約の規定により、英国は清国に対し、従来の広東(広州)に加えて、厦門、福州、寧波、上海の計5港を開港させ、それぞれに領事を置くこと、さらには香港の割譲も認めさせた。そして、広東十三行のような特許商人が貿易を独占して徴税請負を行い、外国商人や外国船の保証人となって、それらを強い、統制下に置く、という従来の制度を廃止させた。また、南京条約締結後約一年の間に結ばれた諸協定により、公正公平な関税率の設定、領事裁判権、最恵国条項、開港五港にそれぞれ軍艦一隻を停泊できる権利などが取り決められた。
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