第19SS武装擲弾兵師団
第19SS武装擲弾兵師団 (ラトビア第2)の師団章
創設1944年1月
廃止1945年5月
国籍ナチス・ドイツ
所属武装親衛隊
規模師団
兵種擲弾兵
人員10,592
所在地
上級部隊第46武装擲弾兵連隊(ラトビア第6連隊)
愛称
モットー
主な戦歴ナルヴァの戦い、ベルリンの戦い
第19SS武装擲弾兵師団 (ラトビア第2)(独19. Waffen-Grenadier-Division der SS (lettische Nr. 2)ラトビア語19. iero?u SS grenadieru div?zija (latvie?u Nr. 2))は武装親衛隊の師団である。
第15SS武装擲弾兵師団 (ラトビア第1)が編成された後、2つ目のラトビア人師団として1944年1月に編成された。バルト諸国での戦闘、とりわけクールラント・ポケットの戦いで活躍した。 第2SS歩兵旅団
編成
連隊称号はそれぞれVoldemars Veiss、Hinrich Schuldtとなっている。 第19SS武装擲弾兵師団は、親衛隊が作った二つ目のラトビア人義勇兵師団である。姉妹関係にある第15SS武装擲弾兵師団がドイツ人部隊を核として作られたように、第2SS装甲師団から多くの士官が送りこまれてきた。この師団は警察大隊にいたラトビア人の参加により兵員数は不足にならなかった。実際に編成が行われたのが1944年5月で、そのたった1ヶ月後にはソ連の夏の大攻勢(クラスノエセロ・ロプシャ攻勢 ナルヴァの戦いでは、同師団は他の多くの武装親衛隊師団と共に戦ったが、その後の赤軍の攻勢により同師団はクールラントポケットに閉じ込められてしまった。[2]この師団の大戦末期の戦歴に関する資料はほとんど残されていないが、1944年クールラントの戦いの途中、師団中のいくつかの部隊が反乱を起こしたのではないか、という「噂があった」[3]、とする資料もあれば、反乱を「起こした」とする資料も存在する。[2]2020年時点で真偽は明らかでない。 1945年、ソ連軍の進撃によって師団が粉砕された後、何とか逃れることができた第15SS武装擲弾兵師団(ラトビア第1)、第19SS武装擲弾兵師団(ラトビア第2)がヴィラス・ヤヌムス その他のSS義勇兵師団と違ってその戦闘能力の高さにおいて名高い第19SS武装擲弾兵師団は同時にナチ思想に深く傾倒したことでも有名である。[2] 着任 離任 階級 氏名 Hinrich Schuldt Wilhelm Bock Bruno Streckenbach 1943年12月 8033人 1944年6月 10,592人 1944年12月 9396人 ・第42SS武装擲弾兵連隊「フォルデマール・ファイス」 ・第43SS武装擲弾兵連隊「ハインリッヒ・シュルツ」 ・第44SS武装擲弾兵連隊(ラトビア第6) ・第19武装砲兵連隊 ・第19SS軽歩兵大隊 ・第19SS戦車猟兵大隊 ・第19SS対空砲兵大隊 ・第19SS工兵大隊 ・第19SS補給大隊 ・第19SS衛生兵大隊 ・第19SS野戦郵便局 ・第19SS獣医大隊 ・第19SS総務大隊 ・第19SS通信大隊 ・HITLER'S FOREIGN DIVISIONS 武装親衛隊外国人義勇兵師団.リイド社.(2007年6月4日) ・武装SS興亡史.学研研究所.(2005年4月6日) ・第三帝国の歴史 ー画像でたどるナチスの全貌ー ヴォルフガング・ベンツ著 斉藤寿雄訳 ・ベルリン陥落1945 アントニー・ビーヴァー著 川上洸訳 典拠管理データベース: 国立図書館
師団の編成とナルヴァの戦い
クールラントポケットへの撤退と反乱
戦争末期での行動
その他
師団長
1943年9月5日1944年3月15日親衛隊上級大佐ヒンリヒ・シュルト
1944年3月15日1944年4月13日親衛隊大佐ヴィルヘルム・ボック
1944年5月26日1945年5月親衛隊上級大佐ブルーノ・シュトレッケンバッハ
師団兵力
戦力組成
脚注[脚注の使い方]^ HITLER'S FOREIGN DIVISIONS 武装親衛隊外国人義勇兵師団. リイド社. (2007年6月4日)
^ a b c d HITLER'S FOREIGN DIVISIONS 武装親衛隊外国人義勇兵師団. リイド社. (2007年6月4日)
^ 武装SS興亡史. 学研研究所. (2005年4月6日)
参考文献
ドイツ