第14SS武装擲弾兵師団
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第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』(ウクライナ第1)
14. Waffen-Grenadier-Division bei der SS (galizische SS-Division Nr. 1)
ルーシのライオンをあしらった第14SS武装擲弾兵師団の師団章
創設1943年7月28日
廃止1945年5月
所属政体 ナチス・ドイツ
所属組織 武装親衛隊
部隊編制単位師団
兵科擲弾兵
人員22,000人
通称号/略称ウクライナ第1
愛称ガリーツィエン(Galizien)
最終上級単位第4SS装甲軍団
(IV. SS-Panzerkorps)
担当地域東部戦線独ソ戦
主な戦歴第二次世界大戦
リヴォフ=サンドミール作戦
スロバキア民衆蜂起
ウィーン攻勢
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第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』(ウクライナ第1)(:14. Waffen-Grenadier-Division der SS (galizische Nr. 1))は、武装親衛隊師団である。1943年ウクライナ西部のガリツィア(ドイツ語名:ガリーツィエン、ウクライナ語名:ハルィチナー)からの義勇兵で編成され、ブロディをめぐる戦闘で大損害を受けた後、再編成されてウクライナ国民軍(英語版、ウクライナ語版)第1師団と改名、連合軍に降伏するまで、スロバキアユーゴスラビアオーストリアで作戦任務に就いていた。
背景

第一次世界大戦終結によるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊により、ウクライナ人が住民の多数を占めていたガリツィア東部はポーランドの一部と化すのを嫌い、西ウクライナ人民共和国としての独立を宣言した。しかしポーランドはこれを軍事力でたたき潰し、ガリツィア東部はポーランド領となった。戦争中、ガリツィア東部のウクライナ人は民主主義者が穏健派を、民族主義者が強硬派を形成し、後者はウクライナ民族主義者組織(OUN)を結成し、多数派を占めていた。

その後OUNは分裂、ステパーン・バンデーラが率いる多数派のOUN-Bに対抗すべくアンドリーイ・メーリヌィク (革命家)(英語版、ロシア語版、ウクライナ語版)が率いた少数派のOUN-Mはアプヴェーアとの緊密な関係を持つ。第二次世界大戦勃発によるナチス・ドイツソビエト連邦による侵攻により、ポーランドが分割統治され、ガリツィア東部はソビエト連邦のウクライナ・ソビエト社会主義共和国の領土とされたが、1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動、ソ連侵攻を開始すると、今度はガリツィア全土がドイツの占領下となった。

ウクライナにおける民族主義組織はその保有戦力でソ連との戦いに参加することをナチス・ドイツに希望していたが、独ソ戦初期においては考慮されなかった。しかし、1943年初頭、度重なる激闘で人的資源が枯渇しつつあったドイツ国防軍はウクライナの民族主義組織を戦力として用いることを考慮するようになり、その後、ウクライナ人師団を編成することを正式に決定、1943年12月28日、発表された。
編成ヴォロディームィル・クビヨーヴィチ

師団はウクラナイナ中央委員会により組織され、ウクライナのカトリック教会の支持を得た上で、ヴォロディームィル・クビヨーヴィチが率いることとなった[1]。ドイツはウクライナ人を始めとするスラブ民族を劣等民族とする、彼らの人種イデオロギーについて何ら修正しようとしなかったが、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーへの忠誠宣言を求めるにあたって、反共主義についてのみとするよう取り計り、また、カトリック教会(ウクライナにおいてはウクライナ東方カトリック教会、もしくはカトリックの信徒が多かった)の従軍司祭同行が認められていた。軍事史作家のMichael O. Loguszは自らの著書「Galicia Division: The Waffen-SS 14th Grenadier Division, 1943-1945」の中で、こういった各種譲歩はドイツの敗色が濃くなり、ウクライナ将兵の士気が下がることを懸念して行われたと主張している[2]。またMichael O. Loguszは師団内のナチ化は行われなかった、とも主張している[2]

ドイツ人以外の将兵で構成された師団の編成は、共産主義と戦うという旗の下、以前より行われており、フランスオランダラトビアエストニアクロアチア義勇兵が参加していた。ウクライナでの師団編成においては、ウクライナ独立へのステップであるとドイツが認めていたため、義勇兵を募ることに支障はなかった。1943年4月28日、ガリツィアで登録された80,000名のウクライナ人で師団を編成することが発表され、1943年12月にはすでに活動可能であったが、1944年5月までは訓練を続けていた。
師団編成師団機関誌『闘争へ!( : Zum Kampf  : да бою!)』入隊を呼び掛ける宣伝ポスター

師団には、バンデーラ派OUN-Bの極端な国家社会主義イデオロギーに反感を持ち、その軍事組織であるウクライナ蜂起軍(UPA)と歩調を合わせたくないと考えながらも、ウクライナの為になら戦うという義勇兵も含まれていた。また、師団の世話役であり、最高級将校を勤めたドムィトロー・パリーイウはポーランド第二共和国における小政党の党首であり、彼の同僚の多くが穏健左派政党、ウクライナ国民民主連合(ポーランド語:Ukrai?skie Zjednoczenie Narodowo-Demokratyczne、UNDO)の党員であった[3][4]。彼等は戦前、ポーランドとの対話を行い、OUNなどの国家社会主義に反対していた。さらに、師団にはアンドリーイ・メーリヌィク率いる国家社会主義穏健派も加わったが、これはOUN-Bが牛耳るUPAとの釣り合いを取るためと見做されていた。また、師団はムィハーイロ・オメリヤノーヴィチ=パウレーンコ(ウクライナ語版、英語版)将軍のような追放されてポーランドに避難していたウクライナ人民共和国亡命政府の要員からも精神的支援を受けていた[5]。そして、ウクライナ東方カトリック教会、ウクライナ正教会も師団の支持をしており、キエフ正教会府主教ムスティスラウの息子もそのメンバーであった[5]

当初OUN-Bは師団が自らのコントロール外にあるということで編成に反対しており、師団がドイツ軍の盾になるだけであると主張した[6]。しかしドイツ側がOUN-Bの干渉を許さず、師団の編成作業が進捗してくると今度はOUN-Bの影響力を確保すべく、軍事訓練を行った多くの構成員を送り込んできた。そのうち幾人かは師団幹部となった。 しかしこの加入によってOUN-Bが師団内で主導権を握ることはなかった[5]
師団ヒムラーの閲兵を受ける師団兵(1943年5月)宣誓式(1943年4月)
指揮官

SS師団「ガリーツェン」はドイツ人とウクライナ人の高級将校が師団幹部を務めることになり、600名のドイツ将校が師団編成のためにベルリンより派遣された。その内わけは半分がプロイセン東部から派遣されたドイツ人将校、残り半分がオランダ人将校であった。


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