第100歩兵大隊
100th Infantry Battalion
100th infantry battalion
創設1942年6月12日
廃止1946年8月16日
再編成1947年7月31日
所属政体 アメリカ合衆国
所属組織 アメリカ陸軍
部隊編制単位大隊(増強)
兵科歩兵
人員1400名
所在地ハワイ州フォートシャフター
第100歩兵大隊[1][2][3][4](だいひゃくほへいだいたい 英語: 100th Infantry Battalion)は、第二次世界大戦中のアメリカ合衆国陸軍において、日系アメリカ人二世兵士達を中心に編成された部隊である。ヨーロッパ戦線に投入され、イタリア戦線、フランス戦線でドイツ軍を相手に戦闘を行った。第二次世界大戦中の死傷率は313%(のべ死傷者数10000名以上)であるともされるが、この数字には誇張(戦傷者章の複数授章等)がある[5]。 日系二世兵士たちは当初、敵対国である日本人を祖先に持つ事から前線には送られず、アメリカ本土で半ば隔離的に訓練をしていた。しかし、1943年にイタリア戦線に送られ、第34歩兵師団
概要
イタリア戦線においては、モンテ・カッシーノの戦い、ベルベデーレの戦い等が当時の新聞などでも紹介された。また第34歩兵師団所属中の日系二世兵士たちは、この頃ヘルメットの前面に師団シンボルである「レッドブル・赤牛」をペイントしていた。これは1943年10月10日に、師団長の命令によって行われた物で、師団の一員に迎え入れられた証、ひいてはアメリカ人兵士と認められた証、と二世達は喜んだ[9]。1944年6月、アメリカ本土からの新たな志願兵を加えて編成された第442連隊戦闘団がイタリア戦線に到着し第442連隊戦闘団の第1大隊となったが、それまでの功績から第100歩兵大隊の名称はそのまま継続した[10]。
当初は「ジャップ」と呼ばれ、上級指揮官から「必要ない」と言われた日系部隊だったが、戦闘を重ねた後は各方面の指揮官から2世部隊を増援で欲しいと言われた。[11]
その後戦線の推移に伴い、第100歩兵大隊を含む第442連隊戦闘団は、第34歩兵師団から第36歩兵師団(英語版)へと転属した[12]。転属後、第100歩兵大隊はフランスでブリュイエール(ブリエア)の解放、テキサス大隊(英語版)救出等の作戦に参加。これは後にアメリカ軍十大戦闘の一つとして記録された[13]。1945年3月にイタリア戦線へ戻り、ゴシックライン(英語版)(Gothic Line)の戦闘を経て終戦を迎えた。終戦後、第100歩兵大隊は大統領部隊感状を始めとする多くの表彰を受け、現代に至るもアメリカ陸軍ベストユニットの一つとされている[14]。
因みに、第100歩兵大隊の兵の12%は現役の大学生で、5%は大卒以上の学歴の持ち主だった。また、入隊にあたって志願者全員に対して実施された陸軍式知能検査によると、大隊全体の平均知能指数は103という結果だった(同検査で110以上の数値が出ると、士官学校で教育を受ける事となっていた)[15]。 以下に第100歩兵大隊の歴史を記す[6][16]。
歴史
前史
1940年10月29日 - 第1回選抜徴兵(Selective Service Act)開始。ハワイにおいて1543名の日系人が徴兵され、ハワイ州兵、第298及び第299歩兵連隊
1941年12月7日 - 真珠湾攻撃。298ならびに299歩兵連隊は海岸線防衛等にあたる。
1942年6月5日 - 298ならびに299連隊他の1432名の日系兵士によるハワイ臨時歩兵大隊(Hawaiian Provisional Infantry Battalion)が編成。マウイ号(英語版)(SS Maui)にてアメリカ本土へ移動する。
この時期の被服は外出時や戦闘時はサマー・カーキユニフォーム、訓練時はブルー・デニム作業服を使用していた[17][18]。
また、当時のライフルはM1903ライフルであったが、真珠湾攻撃後にはM1ガーランド(初期型)(※当時はM1ライフルと呼ばれていた)も使用していた。なお、マウイ号乗船時にハワイの伝統であるレイを貰えなかった事が、彼らの不安をあおった。[19]
訓練期訓練中の第100歩兵大隊
1942年6月12日 - マウイ号はカリフォルニア州オークランドへと入港し、ハワイ臨時歩兵大隊は第100歩兵大隊(独立)となる。その後3本の列車に別れて移動したが、目的地は知らされていなかった。
1942年6月16日 - ウィスコンシン州キャンプ・マッコイ(Camp McCoy)に到着し、編成と訓練を開始。
キャンプ・マッコイでは、ウールシャツ、ウールトラウザーズの上下(これはハワイ以外の戦争全期間を通して使用。通称マスタードシャツ、マスタードパンツ)に、ODフィールドジャケット(初期型を含む)という姿が多い。また訓練や作業ではHBT作業服(初期型)とデニム作業服を混用した。冬季は防寒下着の上下に加えウールオーバーコートの着用も見られる。[17][20]
1943年1月6日 - キャンプ・マッコイでの訓練を終えた第100歩兵大隊はミシシッピー州のキャンプ・シェルビー(英語版)(Camp Shelby)へと移動し、訓練を継続。
1943年4月初頭 - 第85歩兵師団(英語版)に配属され、ルイジアナ州での2ヶ月に渡る演習に参加する。
1943年7月20日 - 大隊旗受領。部隊モットー「Remember Pearl Harbor」を制定。
1943年8月11日 - キャンプ・シェルビーを出発し、キャンプ・キルモアを経て、20日にニューヨークのブルックリンにてジェームス・パーカー号(USS James Parker (AP-46) )に乗船。
出征
1943年9月2日- 北アフリカフランス領アルジェリアのオランに到着する。北アフリカでは鉄道警備にあたる予定であったが、大隊長ファーレント・ターナー中佐の抗議により実施していない。また一部、遺体処理の作業に当たったと言う証言[21] がある。
1943年9月19日- 第34歩兵師団第133歩兵連隊に第2大隊として配属し、オランから攻撃輸送艦フレデリック・ファンストン号(英語版)(USS Frederick Funston (APA-89))に乗船。
イタリア戦線 カッシーノからローマへの道