第1降下猟兵師団
創設1938年10月(第7航空師団として)
廃止1945年
所属政体 ドイツ国
所属組織ドイツ国防軍空軍
部隊編制単位師団
兵種/任務/特性降下猟兵
主な戦歴第二次世界大戦
(ポーランド侵攻)、(北欧侵攻)
(ベルギーの戦い) 、(オランダの戦い)
(ギリシャの戦い)、(クレタ島の戦い)
(ハスキー作戦)、(イタリア戦線)
(東部戦線)
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第1降下猟兵師団(だいいちこうかりょうへいしだん、1. Fallschirmjagerdivision)は、第二次世界大戦時のドイツ国防軍空軍の精鋭パラシュート降下部隊である。当時のドイツ国防軍の空挺兵の師団は降下猟兵(Fallschirmjager)師団という用語で呼ばれ、元々は第7航空師団(Flieger-Division)として編成された部隊が1943年に第1降下猟兵(Fallschirmjager)師団に改称された。 1938年10月に敵軍の防御陣に対し垂直面からの作戦を実施することを意図したエリート落下傘部隊となる第7航空師団(Flieger-Division)の編成が決定され、その指揮官にはクルト・シュトゥデント少将が任命された。 組織的には降下猟兵師団は陸軍の歩兵師団をなぞり3個降下猟兵連隊、砲兵連隊と師団輸送部隊から構成されることになっていたが、1941年まで兵力完備には至らなかった。それにも関わらず師団の基幹部隊は1940年のドイツ国防軍の作戦で目覚しい役割を果たした。第二次世界大戦の開始時には師団は第1と第2降下猟兵連隊で構成されていた。 第7航空師団はポーランド上空では落下傘降下を行わなかったが作戦の終盤で第2降下猟兵連隊/第I大隊がデンブリン(D?blin
歴史
ポーランド侵攻(白の場合 作戦)詳細は「ポーランド侵攻」を参照
1940年4月に第1降下猟兵連隊/第I大隊はデンマークとノルウェーの主要な飛行場を確保するために使用された。これらの任務は成功し、確保された飛行場はドイツ国防軍空軍によるノルウェーへの兵員輸送やデンマーク領域外からの戦闘機の運用に重要な役割を果たした。しかし、後に中隊規模で実施されたドンバスの戦いでの落下傘降下は失敗に終わり、部隊は早々に補給品を使い果たしノルウェー軍の捕虜となった[1]。
5月14日に第1降下猟兵連隊/第I大隊は集結し、主要な港湾奪取の戦闘をしていたドイツ軍山岳兵の援護のためにノルウェーのナルヴィクに降下した。ノルウェーでの作戦行動は6月10日に終了し、6月9日には交戦は停止していた。
フランス侵攻(黄の場合 作戦)エバン・エマール要塞奪取に参加した降下猟兵詳細は「ベルギーの戦い」を参照詳細は「オランダにおける戦い (1940年)」を参照
1940年5月のドイツ軍のベルギー、フランス、オランダへの侵攻計画において第7航空師団は主要な橋梁とエバン・エマール要塞を占拠し進軍を助けるために起用された。ベルギーでの作戦のために突撃大隊が編成され、この大隊の4つの中隊が次の4箇所の目標に割り当てられた:
Schachterの橋の確保。
Veldwezeltの橋の確保。
Vroenhoevenの橋の確保。
エバン・エマール要塞の奪取。
この内3つの任務は完璧に成功したが、Schachterの橋はベルギーの防衛部隊により破壊された。マーストリヒトの街を行進する降下猟兵
オランダへの攻撃には第7航空師団の大部分は第22空輸歩兵師団と協力して参加した。航空強襲の第1の目的はオランダ王室の住居があるハーグの確保と第2の目的は強固なオランダの防御部隊をドイツ軍の機械化された前衛部隊が突破できるように重要な橋を確保することであった。これらの橋はドルトレヒト、ムールデイクとニューウェ・マース川に架かっていた。落下傘降下による強襲も増援部隊が着陸する予定のロッテルダム近郊ヴァールハーフェン飛行場を確保するために実施された。
作戦開始当初の攻撃は成功したが、激しい戦闘の結果幾つかの部隊は多数の戦傷者を出した。ハーグへの攻撃は失敗し、多数の降下猟兵が捕虜となり両師団から出た捕虜の内1,200名が英国へ搬送された。しかし、オランダ軍の反撃にはあったが全ての橋の確保は成功した。オランダ軍がドイツ地上部隊の前進を阻む必要があったときに空挺部隊はこれらの戦力を引き付けていた。ロッテルダムが陥落した後間もなくシュトゥデント将軍は、ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー所属兵士の誤射で頭部に銃創を負った。シュトゥデント将軍が回復するまで一時的にプッチール(Putzier)将軍が師団の指揮を執った。ロッテルダムが激しい爆撃を受けた後、5月14日にオランダは降伏した。
フランスへの侵攻は第7航空師団による作戦行動無しで行われた。7月22日の休戦の調印によりドイツのフランス軍に対する勝利は完璧なものとなった。
英国侵攻計画(アシカ 作戦)詳細は「アシカ作戦」を参照
夏の期間は英国への侵攻計画の準備に費やされた。降下猟兵は上陸序盤で重要な役割を果たす予定であり、ロムニーマーシュにあるリム飛行場確保の任務に割り当てられる予定であった。しかし、第7航空師団と第22空輸歩兵師団は前回の作戦での損耗から回復途上であった。侵攻計画は10月12日に破棄され、師団は新規隊員の訓練時間を確保した。
1941年の初めに国防軍最高司令部は第7航空師団を擁する第XI航空軍団の創設を決めた。この軍団の指揮官にはシュトゥデント将軍が、第7航空師団の新しい指揮官にはシュスマン(Sussmann)将軍が就任した。
ギリシャの戦い(マリータ(Marita) 作戦)ギリシャ、コリントスでの降下猟兵詳細は「ギリシャの戦い」を参照
1941年4月6日にドイツ軍はギリシャに侵攻し迅速な進軍で4月26日にはティーヴァへ達した。同夜、第7航空師団/第2降下猟兵連隊はコリントス地峡を分断する運河に架かる橋を確保する目的でコリントスに降下した。当初の先遣部隊による攻撃は成功したが英軍の反撃にあい、橋は爆破された。それにもかかわらず地峡に架かる橋頭堡を確保し、ドイツ軍はペロポネソス半島の占領を実施した。
クレタ島の戦い(メルクール 作戦)詳細は「クレタ島の戦い」を参照クレタ島に降下する降下猟兵
連合国軍の残存兵力がクレタ島へ退却するとドイツ軍は島を確保するために空挺作戦を実施することに決定した。メルクール 作戦では第7航空師団がクレタ島の飛行場を確保し、その後に第5山岳師団の山岳猟兵が援軍として空輸されることになっていた。