第1次山本内閣
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第1次山本内閣

内閣総理大臣第16代 山本権兵衛
成立年月日1913年大正2年)2月20日
終了年月日1914年(大正3年)4月16日
与党・支持基盤立憲政友会
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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第1次山本内閣(だいいちじ やまもとないかく)は、海軍大将山本権兵衛が第16代内閣総理大臣に任命され、1913年大正2年)2月20日から1914年(大正3年)4月16日まで続いた日本の内閣
内閣の顔ぶれ・人事
国務大臣

1913年(大正2年)2月20日任命[1]。在職日数421日。

職名代氏名出身等特命事項等備考
内閣総理大臣16山本権兵衛海軍大将
海兵2期
伯爵
外務大臣27牧野伸顕外務省→)
貴族院[注釈 1][2]
無所属
男爵
内務大臣25原敬衆議院
立憲政友会
大蔵大臣16高橋是清貴族院
(無所属→)
立憲政友会
男爵初入閣
陸軍大臣 10木越安綱陸軍中将
陸士旧1期
男爵留任
1913年6月24日免[3]
11楠瀬幸彦陸軍中将
陸士旧3期)初入閣
1913年6月24日任[3]
海軍大臣6斎藤実海軍大将
海兵6期
男爵留任
司法大臣 18松田正久衆議院
立憲政友会1913年11月11日免[注釈 2][要出典]
-奥田義人貴族院
立憲政友会
交友倶楽部)臨時兼任
(文部大臣兼任)1913年11月11日兼[4]
19奥田義人貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)転任
1914年3月6日任[5]
文部大臣 24奥田義人貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)司法大臣臨時兼任初入閣
1914年3月6日免[5]
25大岡育造衆議院
立憲政友会初入閣
1914年3月6日任[5]
農商務大臣24山本達雄貴族院
(無所属→)
立憲政友会
逓信大臣21元田肇衆議院
立憲政友会初入閣

辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。

臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。

代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。


内閣書記官長・法制局長官

1913年(大正2年)2月20日任命[6]

職名代氏名出身等特命事項等備考
内閣書記官長18山之内一次内務省
法制局長官 15岡野敬次郎貴族院
立憲政友会
(交友倶楽部)内閣恩給局長
宮中顧問官1913年9月20日免[7]
16倉富勇三郎(司法省→)
貴族院[注釈 1][2]1913年9月20日任[7]

辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。

臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。

代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。


勢力早見表

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身国務大臣その他
立憲政友会3
きぞくいん貴族院3法制局長官
ぐんぶ軍部3
かんりょう官僚1内閣書記官長
10

内閣の動き

1901年から1913年まで、日本の国政は、政府を組織した藩閥と、衆議院を抑えた立憲政友会の連立によって、安定的に運営されていたが(桂園時代)、第3次桂内閣を組閣した桂太郎首相が、政友会にかわる新たな政治勢力(立憲同志会)を組織しようとしたことから藩閥、政友会などの反発を招き、短期間で政権が崩壊した(大正政変)。

1913年2月11日、後継の首相を選定する元老会議が開かれ、政友会総裁の西園寺公望前首相が海軍の薩摩閥の主宰であった山本権兵衛を推挙して、山本に大命降下する。議会対策としては、西園寺は政友会が引き続き閣内与党として支えることを想定、幹部の原敬松田正久らが閣外協力を望んでいたのを説得した結果、原が内相、松田が法相、更に元田肇が逓相としてそれぞれ入閣する。その他、山本達雄農商務相、高橋是清蔵相、奥田義人文相は後に政友会に入党、牧野伸顕外相、木越安綱陸相、斎藤実海相も原の親しい間柄であったため、首相の山本以外は政友会の関係者が占める、事実上の政友会内閣となった[8]
主な政策

1913年度予算…大正政変による相次ぐ倒閣、議会停会などを経て、山本内閣の下で議会が再開されたのが同年2月27日で、予算組み替えの暇がなかったことから、予算案には前内閣の予算案をそのまま提出する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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