第1次伊藤内閣
[Wikipedia|▼Menu]

第1次伊藤内閣
初代内閣総理大臣 伊藤博文議会政治の発展に貢献した三人のうちの1人
内閣総理大臣第1代 伊藤博文
成立年月日1885年明治18年)12月22日
終了年月日1888年(明治21年)4月30日
与党・支持基盤(藩閥内閣
内閣閣僚名簿(首相官邸)
テンプレートを表示

第1次伊藤内閣(だいいちじ いとうないかく)は、参議伊藤博文が第1代内閣総理大臣に任命され、1885年明治18年)12月22日から1888年(明治21年)4月30日まで続いた日本の内閣

明治政府は、廃藩置県の詔書を公布した明治4年(1871年)7月14日、長州木戸孝允薩摩西郷隆盛土佐板垣退助肥前大隈重信の4人による薩長土肥1人ずつの参議内閣をつくり、このとき初めて、廃藩置県の断行も可能そうな、内閣らしい内閣を実現することに成功した。そして、これ以降、太政官議政官立法府員)である参議がしばしば各省庁の長官である行政府員)を兼務しつつ参議内閣を構成し、ほぼ毎朝皇居に集まって議論や決裁を行いつつ統治を行ない続けていた。ところが、欧米諸国の制度を視察・調査した影響および明治政府内外の諸事情から、参議たち自身が内閣(行政府)の主宰者が明白な内閣、いわば、リーダーがいて強力そうに見える内閣を志向するようになり、1885年(明治18年)12月22日の太政官達第69号「太政大臣左右大臣等ヲ廢シ内閣總理大臣等ヲ置ク」および内閣職権の制定により、首班指名された内閣総理大臣およびその者が任命した各国務大臣によって構成される首班指名制内閣に移行することとなった。その最初の内閣がこの第1次伊藤博文内閣である。

伊藤博文は、この内閣発足直前まで参議内閣の参議かつ宮内卿であり、そのため、宮内大臣を兼任している。

井上馨山縣有朋松方正義大山巌山田顕義ら5名も同様に直前の参議内閣の「卿」から「大臣」になっている。

なお、この第1次伊藤博文内閣から逓信省が発足している。
内閣の顔ぶれ・人事
国務大臣

1885年(明治18年)12月22日任命[1]。在職日数861日。

職名代氏名出身等特命事項等備考
内閣総理大臣1伊藤博文長州藩
伯爵外務大臣臨時兼任
宮内大臣[注釈 1]初入閣
外務大臣5[注釈 2]井上馨旧長州藩
伯爵初入閣
1887年9月17日[注釈 3][2]
6伊藤博文旧長州藩
伯爵臨時兼任
(内閣総理大臣兼任)1887年9月17日兼[2]
1888年2月1日免兼[3]
7大隈重信肥前藩
伯爵初入閣
1888年2月1日任[3]
内務大臣1山縣有朋長州藩
陸軍中将
伯爵農商務大臣臨時兼任
議定官初入閣
大蔵大臣1松方正義薩摩藩
伯爵初入閣
陸軍大臣1大山巌旧薩摩藩
陸軍中将
伯爵議定官初入閣
海軍大臣1西郷従道旧薩摩藩
海軍中将
陸軍中将
伯爵農商務大臣臨時兼任
議定官初入閣
司法大臣1山田顕義旧長州藩
陸軍中将
伯爵議定官初入閣
文部大臣1森有礼薩摩藩初入閣
農商務大臣1谷干城土佐藩
陸軍中将
子爵初入閣
1887年7月26日[4][5]
-西郷従道旧薩摩藩
海軍中将
陸軍中将
伯爵臨時代理
(海軍大臣兼任)
議定官1886年3月16日兼[6]
1886年7月10日免兼[7]
-山縣有朋旧長州藩
陸軍中将
伯爵臨時代理
(内務大臣兼任)
議定官1886年7月10日兼[7]
1887年6月24日免兼[5]
2土方久元土佐藩
子爵元老院議官初入閣
1887年7月26日任[4]
1887年9月17日[注釈 4][2]
3黒田清隆旧薩摩藩
陸軍中将
伯爵枢密院議長初入閣
1887年9月17日任[2]
逓信大臣1榎本武揚幕臣
海軍中将初入閣

辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。

臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。

代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。



内閣書記官長・法制局長官

1885年(明治18年)12月22日任命[要出典]。

職名代氏名出身等特命事項等備考
内閣書記官長1田中光顕土佐藩
元老院
陸軍少将会計検査院院長[注釈 5][8]
法制局長官(法制局未設置)1885年12月23日設置[注釈 6][9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef