第1次ポーランド分割
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第一次ポーランド分割
第一次分割後のポーランド・リトアニア共和国(1773年 - 1779年)
喪失人口
プロイセンへ580,000人 [1]
オーストリアへ2,650,000人
ロシアへ1,300,000人
喪失領土
プロイセンへ36,000 km2
オーストリアへ83,000 km2
ロシアへ92,000 km2

第一次ポーランド分割(ポーランド語: I rozbior Polski)は、1772年に行われたポーランド・リトアニア共和国の最初の分割。すでにロシア帝国の属国と化していたポーランドは、中・東欧の勢力均衡を図ったロシア帝国、プロイセン王国ハプスブルク帝国(オーストリア)によりその領土を蚕食された。ポーランド軍はこうした隣国に抵抗できるだけの軍事力を持っておらず、また三国軍が迅速にポーランド領を制圧したために、ポーランドは1773年に分割セイムを開き、分割を承認せざるを得なくなった。
背景

17世紀後半から18世紀にかけて、ポーランド・リトアニア共和国はヨーロッパ有数の大国の地位から転落し、ロシアの保護国属国衛星国などとされることも)に成り下がった。これはロシア皇帝が積極的かつ効果的にポーランドの国王自由選挙セイム(議会)に介入していった結果である。例えば1767年に開かれたセイムはロシア大使ニコライ・レプニンに完全に支配され、後にレプニン・セイムと呼ばれるようになった[2][3]

第一次ポーランド分割は、ロシアの伸長に伴う周辺国の勢力均衡策により発生した。露土戦争オスマン帝国を圧倒しつつあったロシアは、モルダヴィアワラキアへの領土的野心を持っていたハプスブルク帝国を脅かした。この時点で、ハプスブルク帝国は戦争に介入してロシアと干戈を交えることすら検討していた[4][5]1772年7月のヨーロッパの図 (イギリスの風刺画

ここで、両国と友好関係を持っていたフランスが介入し、領土補償による解決を提案した。すなわち、ハプスブルク帝国はシュレージエン戦争で奪われたプロイセン領シュレージエンの一部をプロイセンから取り戻し、その代償としてプロイセンはポーランド領となっていたヴァルミアを回復し、さらにドイツ人住民が多いクールラント・ゼムガレン公国をもポーランドから獲得するというものである。プロイセン王フリードリヒ2世は苦労して獲得したシュレージエンを返還する気はなかったものの、平和的解決の模索については興味を示していた。もしロシア・ハプスブルク帝国間で戦争が勃発すれば、プロイセンも露普同盟に基づいて大戦争に巻き込まれることになり、これは七年戦争で財政的・軍事的に疲弊しきっていたプロイセンが耐えられることではなかった。またフリードリヒ2世は、ロシアと同盟を結んだとはいえ、その過度な強大化とオスマン帝国の弱体化によるバランス崩壊を望んでいなかった。1770年から1771年にかけての冬、プロイセン王弟ハインリヒがプロイセン代表としてロシアの首都サンクトペテルブルクに滞在していた。この直前の1769年、ハプスブルク帝国は15世紀のルボフラ条約によってポーランドが管理していたスペシ郡13市を併合していたので、ロシア皇帝エカチェリーナ2世とその顧問イヴァン・チェルヌィショフは、ハインリヒに対してプロイセンもヴァルミアなどポーランドの領土を獲得するよう持ちかけた。この知らせを受けたフリードリヒ2世は、ハプスブルク帝国、プロイセン、ロシアの三国によるポーランド国境地帯の一斉併合を提唱した。彼は最も勢力が弱まっているハプスブルク帝国が一番大きな分け前を受け取るべきとし、またロシアにもオスマン帝国に向けている領土拡張の矛先をより弱体で死に体のポーランドに向けるよう仕向けたのである[4]。ハプスブルク帝国のヴェンツェル・アントン・フォン・カウニッツは、(本来露墺間の問題とは無関係なはずの)プロイセンがポーランド領を獲得するなら、代わりにシュレージエンをハプスブルク帝国に返還すべきだと主張したが、これはやはりフリードリヒ2世に拒絶された。

沈黙のセイム以降、ロシアはすでにポーランドを自らの保護国とみなしていたが[2]、ポーランド国内ではロシアの影響力を払拭しようとするバール連盟による戦争が続いて国土が荒廃していた[4]。さらにコリーイの農民反乱ウクライナ・コサックの蜂起も重なり、ポーランドの国際的地位は下がる一方だった。さらにロシアの肩入れによりポーランド王となっていたスタニスワフ2世アウグストは権力基盤が弱体で、それでいて独立志向が強く、ロシアは次第にポーランドを保護国としておく価値に重きを置かなくなっていった[6]。周辺三国は無政府状態のポーランドの安定を回復するという名目(バール連盟の存在が格好の正当化の種とされた)のもとに国境を越えてポーランド周縁部を制圧したが、これは明らかに領土的野心によるものであった[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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