第1次セルビア蜂起
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左側の人物が第一次セルビア蜂起の指導者カラジョルジェ・ペトロヴィチ
右の人物が第二次セルビア蜂起の指導者ミロシュ・オブレノヴィッチ1世

セルビア蜂起(セルビア語:Српска револуци?а セルビア革命)とは19世紀の初頭にオスマン帝国支配下のバルカン半島で初めて、セルビアで発生した大規模な反乱である。この蜂起は第一次セルビア蜂起1804年 - 1813年)と第二次セルビア蜂起1815年 - 1817年)の二度におよんだ。「悪いトルコ人」[1]の暴政に対するスルタンへの請願として始まり、徐々に独立戦争の様相を呈した。第二次蜂起を通じて、その目標は自治の獲得へと変化していき、1830年に完全な自治権を有するセルビア公国となった。ただし、独立の正式承認は1878年のベルリン条約まで持ち越しとなる。
背景コソボの戦い
オスマン帝国の襲来

14世紀、ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの元で全盛期を迎えた中世セルビア王国もドゥシャン死後、後を継いだステファン・ウロシュ5世は若年で軍事、政治の才能が乏しかったため分裂、テッサリアは叔父のシメオン・ウロシュが、ヴァルダル川左岸は甥のデヤノヴィチが、西マケドニアプリレプヴカシンがそれぞれ公として独立を宣言する事態に至っていた[2]

しかしこの分裂は東ローマ帝国の内紛に乗じてガリポリ半島に橋頭堡を築いていたオスマン帝国にチャンスを与えた。1360年アドリアノープルを占領したオスマン帝国軍は徐々に勢力を拡大、1389年6月15日コソヴォ・ポリェへ至ったオスマン帝国軍は中世セルビア公国を中心とした諸侯軍をコソボの戦いで撃破、ここにオスマン帝国のバルカン半島支配が成立した[2]

しかし、セルビア公国はすぐさま滅んだわけではなかった。規模こそ縮小されたが、オスマン帝国がティムールの攻撃に悩まされている間、ごく短期間ではあったが、息を継ぐことができた。1427年以降、セルビアはハンガリーの援助を受けながらオスマン帝国への抵抗を続けたが、1441年にはセルビアの大部分がオスマン帝国の手に落ち、1441年、最後の要塞スメデレヴォが陥落したことでセルビア公国は完全にその息の根を止められ、ツルナゴーラのみが辛くもその手から逃れることができた[3]
オスマン帝国支配下のセルビア1456年、ベオグラードを囲むオスマン帝国軍「オスマン帝国支配下のセルビア」を参照

オスマン帝国の侵入開始以降、セルビア人らは大移動を開始した。ボスニアダルマチア、ツルナゴーラ、スラヴォニアヴォイヴォディナ、彼らは各地に散らばった。1389年コソボの戦い以降はドナウ川を越えて北方へ脱出する人々も現れた。そしてハンガリーへ脱出した人々は後にハンガリー対オスマン帝国の戦いで大きな役割を演じることになる[4]

しかし、オスマン帝国に留まったセルビア人らも多数存在した。彼らの中にはデウシルメ制によって強制改宗させられたものや自発的にイスラム教へ改宗したものも現れたが、その大部分はセルビア正教会を中心にキリスト教を奉じ続けた。これはオスマン帝国が宗教に寛容であったことや、地方行政や教会の業務に独立性が認められたこと主因であり、オスマン帝国はセルビア人らに圧制的ではあったが、堪えられないところまで厳しいものではなかった[5]

また、デウシルメ制で徴用された者の中には大宰相まで上り詰めた者もいた。ソコロヴィチは大宰相にまで昇進すると、オスマン帝国の統治システム、ミッレト制を活用、セルビア正教ミッレトとしてペーチ総主教座を中心にセルビア正教会を構築して1551年以降、宗教上の自治を与え、セルビア人らのアイデンティティを保持させた[6][7]

しかし、当初こそ圧政が行われることはなかったが、中央権力が及ばなくなり、パシャ等が腐敗しはじめると徐々に状況が悪化していった。また、オスマン帝国の精鋭、イェニチェリへの徴兵が行われたことがセルビア人らにとって最も不満が募ることであった。徴兵自体は1676年で終了したが、18世紀に入るとイェニチェリが腐敗化、セルビアの地域で重税を課して圧政を始めたため、セルビア人らはこれに苦しんだ[8]


17世紀以降、オスマン帝国は頂点を越え衰退へと向かっていた。1664年、ザンクト・ゴットハルトの戦い (en) でオスマン帝国軍がハプスブルク帝国軍に撃破され1683年にはウィーンから撃退された。そのため、1687年にはハンガリーを、1688年にはベオグラードを失った。この事態に至り、セルビア人らは狂喜しながらオスマン帝国へ対抗しようとした。しかし、オーストリア軍はスコピエまで南下したものの、カトリック系であるイエズス会の神父等を伴って正教徒であるセルビア人らの改宗を目論んでいた。このため、オーストリア軍への協力をやめる人が続出、結局、協力を得ることができなくなったオーストリア軍はドナウ川以北へ撤退せざるを得なくなった。1699年カルロヴィッツ条約が結ばれたことでハンガリー、クロアチア、スラヴォニアはオーストリア支配下となったが、セルビアはオスマン帝国に残されることになった[9]セルビア総主教アルセニエ4世

その後もオスマン帝国とオーストリアの間では戦いが続いてたが、1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約ワラキアの一部とティミショアラバナート、そしてセルビアの一部であるサヴァ=ドナウ間の南方一体が譲渡された。しかし、オーストリアはセルビア人らにカトリックを押し付けようとしたため、セルビア人らはこれを嫌いオスマン帝国領へ南下、1738年に再びオーストリアとオスマン帝国との間で再び戦いが始まったが、セルビア人らはこれに協力することはなかった[10]

そのためセルビア総主教アルセニエ4世(英語版)(Арсени?е IV)がセルビア人らにオスマン帝国と戦うことを説いたが、結局、セルビア人らは協力しなかったため、オスマン帝国は再び勢力を盛り返し、1739年ベオグラード条約が締結されるとオーストリアは再びサヴァ=ドナウ間南方一体を失い、ベオグラード、モラヴァ川 (en) 沿岸をも失った[11]ベオグラード条約の調印

1739年以降、セルビアは平穏な時代を迎えた。しかし、オスマン帝国の中央集権体制が弱体化したため、地方官吏の力が増していった。


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