第1次オーステンデ襲撃
[Wikipedia|▼Menu]
オーステンデ港の地図

第1次オーステンデ襲撃(ZO作戦の一部)は、第一次世界大戦中の1918年春にイギリス海軍により実施された、ドイツ軍占領下のオーステンデ港に対する2度の攻撃の最初のものである。オーステンデは4月23日に近くのゼーブルッヘ港と同時に攻撃された。目的は、10km内陸に位置しイギリス沿岸や航路に対する攻撃を実施するに当たって理想的な場所である、きわめて戦略上重要なブルッヘ港を封鎖することであった。ブルッヘやその衛星港は、大西洋の戦いにおけるドイツ軍の計画において重要な位置を占めていた。なぜなら、ブルッヘはイギリス海峡を横断する兵員輸送船の航路に近く、またUボートウエスタンアプローチへ出撃する際ドイツ本国からよりも所要時間が早く済むからであった。

攻撃計画は、旧式巡洋艦をオーステンデの運河入り口には2隻、ゼーブルッヘでは3隻沈め、ブルッヘからの敵艦の出撃を阻止するというものであった。オーステンデ運河はブルッヘへ通じるもう一つの運河より小規模で狭く、そのためゼーブルッヘよりは重要な目標ではないとされていた。ゼーブルッヘ襲撃では一定の成果があったが、オーステンデ襲撃は完全な失敗に終わった。港を守備するドイツの海兵隊は綿密な準備をしており、イギリスの襲撃部隊を迷わせ最終段階で作戦を失敗に追い込んだ。

攻撃の失敗から3週間後、2度目の攻撃が実行され運河入り口に閉塞船を沈めることに成功した。だが、結局はブルッヘ港を完全に封鎖は出来なかった。更なる攻撃計画は1918年夏の間に消え去り、ブルッヘからの脅威はそこが連合国軍により解放される戦争末期までなくなることはなかった。
ブルッヘ

ブルッヘは海への競争の間にドイツ軍により占領され、すぐにドイツ海軍にとって戦略的に重要な地であると判明した。ブルッヘは10km内陸の運河網の中心に位置しており、運河は沿岸の小さな町ゼーブルッヘとオーステンデで海へつながっていた。このような位置関係により、非常に大口径の砲を用いなければ陸からも海からもブルッヘを砲撃することは出来ず、またイギリス軍が襲撃部隊を送ることも難しかった。このような利点を生かし、ドイツ海軍は、駆逐艦や水雷艇、Uボート部隊のための大規模な訓練および修理設備をブルッヘに建設した[1]

1916年には、ブルッヘがイギリス沿岸やイギリス海峡を横断する兵員輸送船の航路に近いこと、またUボートにとっては当時最も海上交通量が多かったウエスタンアプローチまで近いということから、イギリス海軍本部はブルッヘのドイツ海軍部隊に対して重大な懸念を抱いていた[2]。1915年の春遅く、レジナルド・ベーコン (Reginald Bacon) 提督はモニターでオーステンデの閘門の破壊を試みたが不成功に終わった[3]。1917年に頂点に達した大西洋の戦いにおいて、ブルッヘの重要性はますます増大した。1918年初めまでには、海軍本部は無制限潜水艦作戦により引き起こされる問題の根本的な解決策を模索しており、その中にAllied Naval and Marine Forces部門に対しベルギーのUボート基地に対する攻撃を計画せよという指示があった[4]

Allied Naval and Marine Forcesは、ドイツ占領下にある地域の沿岸部に対する襲撃や作戦を実行するために新たに作られた部門であった。この組織はイギリス海軍とフランス海軍の広範な戦力を指揮でき、ロジャー・キーズ (Roger Keyes) 提督とその副官であるヒューバート・ラインス (Hubert Lynes) 准将の指揮下にあった[5]。キーズとラインスおよび幕僚達は1917年遅くにブルッヘを無力化する手法について検討を開始し、1918年4月までには作戦として実行可能にした。
計画ロジャー・キーズ提督

ブルッヘ封鎖のため、キーズとラインスはブルッヘから海への出口に当たる港に対して二つの攻撃を実施することを決めた。ゼーブルッヘは、3隻の閉塞船や多数の支援艦艇からなる大規模な部隊により攻撃されることになった。オーステンデも同様であるが、兵力はより少なく、ラインスがその指揮を直接とった[5]。計画では、オーステンデで海に出る運河封鎖のために2隻の旧式巡洋艦シリアスとブリリアントを沈めることになっていた。2隻は主要な装備が取り外され、戦隊下部には石やコンクリートが詰められることになった。正しい場所に正しい角度で沈めることが出来れば、閉塞船は運河を封鎖する理想的な障害物になるはずであった[6]

攻撃に適した天候の時に闇にまぎれて攻撃部隊はイギリス海峡を横断し、夜半すぐにゼーブルッヘ攻撃と同時に攻撃をかける計画であった。二つの攻撃を連携させることでドイツ軍の守備隊を分散させると共に少しは奇襲になることも期待された[7]。沿岸戦隊に対する支援は、沖合戦隊のモニターや駆逐艦および、連合国軍支配下のフランドルに展開する海兵隊からの砲撃であった[8]。近接援護はモーターランチや水雷艇、沿岸モーターボートによってなされ、それらは閉塞船の進入時や自沈後の乗員脱出の間煙幕で閉塞船を隠す予定であった。
イギリス軍の戦闘序列
沖合戦隊 (Offshore Squadron)


ロード・クライヴ級モニター(12インチ砲搭載)

マーシャル・スールト、ロード・クライヴ、プリンス・ユージーン、ジェネラル・クローフォード


M15級モニター(7.5インチ砲搭載)

M24、M26、M21


駆逐艦

メントール、ライトフット、ズビアン

フランス海軍:Lestin、Roux、「ブークリエ」


その他

水雷艇4隻、フランスのモーターランチ4隻


沿岸戦隊 (Inshore Squadron)


閉塞船:

シリアス、ブリリアント


駆逐艦

スウィフト、フォルクナー(嚮導駆逐艦)、マッチレス[9]、マスティフ、アフリディ、テンペスト、ティトラーク


その他

モーターランチ18隻、沿岸モーターボート8隻

砲撃支援は、連合国軍が保持していたフランドルに展開した海兵隊の重砲部隊によってなされた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef