第1師団
創設1888年(明治21年)5月14日
廃止1945年(昭和20年)
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位師団
兵科歩兵
人員約25,000名
所在地東京-満洲(チチハル)-北支-フィリピン
編成地東京
通称号/略称玉
補充担任第1師管・東京師管
第1師団(だいいちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団のひとつ。 1888年(明治21年)5月に東京鎮台を母体に編成された。同時に第2師団から第6師団が夫々鎮台を改編して創設されたが、第1師団も含めこの時編成された6個師団が日本で最古の師団である。また、東京防禦総督が置かれるまでは、第1師団長が東京衛戍司令官とされていた。 師団は衛戍地である東京近郊の警備を主任務としているが戦役にも参加し、日清戦争・日露戦争・乾岔子島事件・ノモンハン事件・太平洋戦争に参加。 1918年6月15日、兵器部が東京市赤坂区青山南町一丁目の師団司令部構内に設置され事務を開始[1]。 1937年(昭和12年)9月1日には、留守第1師団の担当で第101師団が編成された。 1936年(昭和11年)2月22日、師団に満洲駐箚の命令が下されたが、これはその頃第1師団所属の青年将校の中に昭和維新を叫ぶ者が居り、それらを満洲へ遠ざける狙いがあったという。しかしこの命令の4日後秘密裏に計画されていたクーデターが決行される事となる。これが二・二六事件である。クーデター自体は失敗に終わるが、首魁として処罰された野中四郎大尉を始め、香田清貞大尉・安藤輝三大尉・山口一太郎大尉ら決起将校の多くは何れも第1師団所属であった。 太平洋戦争ではフィリピン方面に出征。フィリピン防衛戦では山下奉文陸軍大将率いる第14方面軍に属し、レイテ島の戦いが勃発するとレイテ島西部オルモック湾に上陸する。師団は1万を超える兵力でレイテ島に渡ったものの、アメリカ軍との圧倒的な火力の差と補給が途絶えたことからほぼ壊滅状態となった。1945年(昭和20年)1月に野砲兵第1連隊を残しセブ島に移動したときの残存兵力僅か800名であった。その後、セブ島でも防衛戦を行った。 1945年9月2日、戦闘停止。同年11月から1947年12月にかけて、逐次復員。[2]
概要
二・二六事件と第1師団
太平洋戦争
歴代師団長
三好重臣 中将:1888年(明治21年)5月14日 - 1890年6月7日
山地元治 中将:1890年(明治23年)6月7日 - 1896年10月14日
奥保鞏 中将:1896年(明治29年)10月14日 - 1897年10月27日
川村景明 中将:1897年(明治30年)10月27日 - 1901年4月2日
伏見宮貞愛親王 中将:1901年(明治34年)4月2日 - 1904年7月10日
松村務本 中将:1904年(明治37年)7月10日 - 1905年2月4日(戦病死)
飯田俊助 中将:1905年(明治38年)2月6日 - 1906年2月3日
閑院宮載仁親王 中将:1906年(明治39年)2月3日 - 1911年9月6日
木越安綱 中将:1911年(明治44年)9月6日 - 1912年12月21日
一戸兵衛 中将:1912年(大正元年)12月26日 - 1915年2月15日
仙波太郎 中将:1915年(大正4年)2月15日 - 1916年8月18日
本郷房太郎 中将:1916年(大正5年)8月18日 - 1917年8月6日
河合操 中将:1917年(大正6年)8月6日 - 1921年1月6日
西川虎次郎 中将:1921年(大正10年)1月6日 - 1922年8月15日
白川義則 中将:1922年(大正11年)8月15日 - 1922年10月20日
石光真臣 中将:1922年(大正11年)10月20日 - 1925年5月1日
和田亀治 中将:1925年(大正14年)5月1日 - 1928年8月10日
畑英太郎 中将:1928年(昭和3年)8月10日 - 1929年7月1日
真崎甚三郎 中将:1929年(昭和4年)7月1日 - 1931年8月1日
林仙之 中将:1931年(昭和6年)8月1日 - 1933年3月18日
森連 中将:1933年(昭和8年)3月18日 - 1934年8月1日
柳川平助 中将:1934年(昭和9年)8月1日 - 1935年12月2日
堀丈夫 中将:1935年(昭和10年)12月2日 - 1936年3月23日
河村恭輔 中将:1936年(昭和11年)3月23日 - 1938年7月15日
岡部直三郎 中将:1938年(昭和13年)7月15日 - 1939年9月12日
横山勇 中将:1939年(昭和14年)9月12日 - 1941年10月15日
中沢三夫 中将:1941年(昭和16年)10月15日 - 1944年3月1日
服部暁太郎 中将:1944年(昭和19年)3月1日 - 1944年8月3日
(心得)片岡董 少将:1944年(昭和19年)8月3日 - 1944年10月26日
片岡董 中将:1944年(昭和19年)10月26日 -
歴代参謀長
大島義昌 歩兵大佐:1888年(明治21年)5月14日 - 1891年6月13日[3]
寺内正毅 歩兵大佐:1891年(明治24年)6月13日[4] - 1892年9月9日
大寺安純 歩兵大佐:1892年(明治25年)9月9日 - 1895年1月10日[5]
伊瀬知好成 歩兵大佐:1895年(明治28年)1月10日 - 1895年2月22日[6]
(心得)内山小二郎 砲兵中佐:1895年(明治28年)2月27日 - 1895年12月12日[7]
武田秀山 歩兵大佐:1895年(明治28年)12月31日 - 1898年3月3日[8]
伊地知季清 砲兵大佐:1898年(明治31年)3月3日[9] - 1900年4月25日
神尾光臣 歩兵大佐:1900年(明治33年)4月25日 - 1901年2月9日[10]
星野金吾 砲兵中佐:1901年(明治34年)2月9日 - 1907年11月13日[11]
橋本勝太郎 歩兵大佐:1907年(明治40年)11月13日[12] - 1910年7月4日[13]
浄法寺五郎 歩兵大佐:1910年(明治43年)7月4日[13] - 1912年4月26日
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