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第六高等学校
(六高)
創立1900年3月29日
所在地岡山県岡山市古京町
初代校長酒井佐保
廃止1950年3月
後身校岡山大学
同窓会
第六高等学校(1926年頃撮影)
旧制第六高等学校(きゅうせいだいろくこうとうがっこう)は、1900年(明治33年)3月に岡山県岡山市に設立された官立旧制高等学校。略称は「六高」(ろっこう)。
概要
1886年 - 87年の高等中学校7校(うち5校がナンバースクール)の設立後、高等学校令に基づき新規に設立された旧制高校としては最初のものである。高校新設をめぐる広島との熾烈な争奪戦を経て、(後に岡山医科大学に昇格する三高医学部を除けば)中国地方では、山口高等学校(山口高等中学校として設立、1905年(明治38年)に山口高等商業学校へ転換、1919年(大正8年)に改正高等学校令に基づき再興)に次ぐ2番目の高校として設立された。
文科・理科からなる修業年限3年の高等科を設置し、卒業生の進学先は東京・京都の両帝大にほぼ二分されていた。運動部の活動が特に盛んな高校として知られ、インターハイ(旧制)ではほとんどの部が全国優勝を勝ち取っている。
実践を重んずる校風があり、政財界や法曹界に数多くの人材を輩出している反面、文芸方面への進出は極端に少ない。
新制岡山大学の前身校の一つで法文学部・理学部・教養部の構成母体となった。
沿革1926年頃の岡山市街全景。中央の校舎群が第六高等学校。
1900年
3月29日 - 設立[1]。
4月19日 - 大学予科を設置。9月11日より授業を開始する[2]。
9月15日 - 開校式を行う[3]。
1928年6月 - 食事改善要求に端を発する学生騒動
岡山市中区古京町の操山の麓に位置する校地は「六稜」と呼ばれ新制岡山大学への包括まで維持されたが、1945年6月の空襲による校舎などの焼失後は、完全に復興されないまま廃校となった(敗戦後黒正巌校長の下で動員された六高生多数が、進駐軍が撤収して空き家となった岡山の陸軍第17師団跡地22万坪を確保、現在の岡山大学津島キャンパスとなった)。
現在、かつての六高校地は岡山県立岡山朝日高等学校に継承されており、当時の建造物のうち書庫(画像参照)・柔道場・校門が現存し、校内には六高記念館が設置されている。
有名な出身者「岡山大学の人物一覧」も参照
政界
宮沢裕 - 衆議院議員、元首相宮沢喜一の父
林譲治 - 衆議院議長
星島二郎 - 衆議院議長
中島弥団次 - 衆議院議員(立憲民政党)
黒田寿男 - 衆議院議員(日本社会党)、労働者農民党主席
和田博雄 - 農林大臣、衆議院議員(日本社会党)/ 企画院革新官僚
栗栖赳夫 - 大蔵大臣
岡野清豪 - 文部大臣、通商産業大臣
池崎忠孝 - 衆議院議員、評論家
石原幹市郎(石原武二) - 自治大臣、内務出身
高橋等 - 法務大臣、逓信官僚
重政誠之 - 農商次官、農林大臣
坊秀男 - 厚生大臣、大蔵大臣
西村尚治 - 沖縄開発庁長官、 郵政事務次官、
帆足計 - 衆議院議員(日本社会党)
柳田秀一 - 衆議院議員(日本社会党)
安井謙 - 参議院議長
木村睦男 - 参議院議長、運輸官僚
秋山長造 - 参議院副議長
亀長友義 - 参議院議員(自由民主党)、農林事務次官