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第六次対仏大同盟
ナポレオン戦争と対仏大同盟中
ライプツィヒの戦い
対仏大同盟の勝利、 フォンテーヌブロー条約、 パリ条約
フランス復古王政の樹立; ナポレオンのエルバ島への追放
領土の変化
ウィーン会議の開始
1815年にナポレオンがエルバ島から脱出して、百日天下で帝位を取り戻して、第七次対仏大同盟が結成される。
衝突した勢力
当初の連合国
ロシア帝国
プロイセン王国
オーストリア帝国
イギリス
スウェーデン
スペイン・ブルボン朝
ポルトガル王国
シチリア王国
サルデーニャ王国
ライプツィヒの戦い前
バイエルン王国
ライプツィヒの戦い後
ヴュルテンベルク王国
バーデン
オランダ連合
フランス帝国
イタリア王国
ナポリ王国
ワルシャワ公国[注釈 1]
1814年1月まで
デンマーク=ノルウェー
ライン同盟 (多くの国がライプツィヒの戦いの後に離脱した)
アメリカ(米英戦争)
指揮官
アレクサンドル1世
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
フランツ2世
ジャン=バティスト・ベルナドット
リヴァプール伯爵
ナポレオン・ボナパルト
戦力
1813年: 1,070,000名1813々: 850,000名
1814年: 356,000名
被害者数
526,000[1]
戦傷者 391,000名
捕虜・行方不明者 135,000名
668,900[2][1]
戦死者 103,300名
戦傷者 320,600名
捕虜・行方不明者 245,000名
第六次対仏大同盟(だいろくじたいふつだいどうめい、英語: Sixth Coalition、1812年 - 1814年)は、ナポレオン1世のフランス帝国による覇権に挑戦するため、ヨーロッパ諸国が結成した同盟である。ロシア遠征で多大な損害を被ったフランス軍は、四方から迫る連合軍に圧倒され、ついにナポレオンは退位に追い込まれた。
第六次対仏大同盟における主要な戦いにはリュッツェンの戦い、バウツェンの戦い
(英語版)、ドレスデンの戦いが挙げられる。第六次対仏大同盟の最大の戦いであるライプツィヒの戦い(諸国民の戦いとして知られる)は第一次世界大戦以前ではヨーロッパの歴史で最も大規模な戦いであった。最終的にナポレオンはロシアとドイツから押し返され、彼の破滅の原因となった。ナポレオンの軍隊は再編成されたが、連合軍は1813年にはドイツからナポレオンを追い出し、1814年にはフランスに進攻した。連合軍は残存するフランス軍を打ち負かしてパリを占領し、ナポレオンに退位の調印をさせて追放した。連合国によってフランスの君主制が復活し、ブルボン家の継承者による復古王朝にフランスを支配させた。しかしこれによってナポレオン戦争が終結したわけではなかった。ナポレオンはエルバ島での監禁から逃亡し、再びフランスにて権力の座についた。これによって1815年に第七次対仏大同盟が結成された(この時の支配は百日天下としても知られる)。
ロシア遠征詳細は「1812年ロシア戦役」を参照
1812年ナポレオンはアレクサンドル1世に大陸封鎖令を強いるためにロシアに進攻した。大陸軍は650,000名の兵士から構成されており、(およそ半分はフランス軍で残りは同盟国からの援軍であった)1812年6月23日にネマン川を渡った。ロシアは祖国戦争を宣言した一方、ナポレオンは第二次ポーランド戦争を宣言した。ポーランドはこの侵攻軍に100,000名の軍を送り、後にロシアと交渉する事を念頭に置いていた。しかしポーランド人の期待に反して、ナポレオンはポーランドにいかなる譲歩もしなかった。ロシア軍はボロネジの戦い(9月7日)まで、侵略者にとって有益なあらゆる物資を破壊しながら後退した。この戦いではフランスは戦術的に勝利したが、この戦いはどちらの陣営も決定的な戦果が出せなかった。この戦いの後ロシア軍は撤退し、モスクワへの道は開かれた。9月14日までにフランス軍はモスクワを占領したが、既にこの都市はもぬけの殻であった。アレクサンドル1世は降伏を拒絶したため、(しかし西ヨーロッパの基準ではほとんど戦争に敗北していた)フランス軍は食料と宿営地(モスクワの大部分は焼き払われていた)もほとんどない状態で、冬が近づく中モスクワを放棄して撤退した。
こうして壊滅的な撤退が開始され、この間に食料の不足のために兵士の脱走が相次ぎ、冬の厳しい寒さが増し、総司令官のミハイル・クトゥーゾフが率いるロシア軍と民兵による絶え間ない攻撃に晒された。大陸軍は戦闘と冬の寒さと飢えによって少なくとも370,000名を失い、200,000名が捕虜となった。11月までに27,000名の兵士のみが再びベレジナ川を渡ることが出来た。ナポレオンは軍をおいてパリに戻り、ロシアの進軍からポーランドを防衛する準備を始めた。