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第五関門丸(だいごかんもんまる)は、鉄道省(後の日本国有鉄道)関森航路、宇高航路に在籍した自航式の貨車航送船。第三関門丸、第四関門丸に準じた性能であるが、改良が加えられている。
船首、船尾どちらからも貨車を搭載できるように、外輪船であった。 函館船渠が建造し、1926年(大正15年)7月29日就航する。これにより、第一関門丸、第二関門丸が予備船となる。 車両甲板には軌道が一本敷設され、7t積貨車を7両積み込むことができる。関門海峡は潮流が速く、航送場の前面で船を旋回することが困難であったことから、そこで前進、後退と停止をすばやく行うため外輪船方式が採用され、船首、船尾どちらからも搭載できるように、船体は、機関と煙突などをのぞき、前後対称となっている。 1931年(昭和6年)、改造が行われ、甲板先端を延長し、ワム型15t積貨車を7両積み込めるようになった。このため貨車の搭載は船首だけで行われるようになった。 1942年(昭和17年)7月1日、関門トンネルが開通し、鉄道車両渡船が廃止される。 その後、輸送能力が逼迫していた宇高航路へ関門丸5隻は転属となる[1]。「第五関門丸」は「第三関門丸」と「第四関門丸」とともに1942年9月28日に転属し、10月6日に運航が開始された[2]。 関門丸は船型が独特であったため、宇野駅と高松駅に関森航路の施設を転用、関門丸型専用の航送場を設置した。それでも不十分であったので、1946年(昭和21年)8月に新たな設備を設置した。 1944年11月15日から1945年5月4日まで軍に徴用された[3]。8月8日、高松港沖で銃撃を受けた[4]。 1947年2月15日、高松港の岸壁に衝突[5]。10月2日、高松港出港時に貨車6両が沈没した[5]。 「第五関門丸」はほかの関門丸4隻とともに1948年12月27日に運航停止となり、紫雲丸型の就航に伴い必要がなくなったため1950年5月10日に日本自動車航送に売却された[6]。 同社は西日本鉄道が関門海峡における自動車航送を目的に設立した会社で、1950年(昭和25年)8月1日から運航したが、1958年(昭和33年)に関門トンネルが開通したため同社の自動車航送が廃止され、運航終了した。 ※1 ft=0.3048m
概略
要目
総トン数:502.3t
全長:183.0 ft
全幅:30 ft
貨車:7t積貨車 7両(後にワム型15t積貨車 7両)
航海速力:10.4kt
参考文献
電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1965年1月号(通巻166号)
升田嘉夫 関門航路63年の幕を閉ず
青木栄一 関門鉄道連絡船の歩み
萩原幹生(編著)『宇高連絡船78年の歩み』成山堂書店、2000年、ISBN 4-425-92331-6
脚注[脚注の使い方]^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』51、113ページ
^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』113、277ページ
^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』279-280ページ
^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』280ページ
^ a b 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』281ページ
^ 『宇高連絡船78年の歩み』114、282-283ページ
表
話
編
歴
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