第五福竜丸
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映画については「第五福竜丸 (映画)」をご覧ください。
当時の第五福竜丸


船歴
建造所和歌山県[1]
起工不明
進水1947年
竣工1947年[1]
除籍1967年
性能諸元
総トン数140トン[1]
純トン数
載貨重量
排水量
登録長約30m[1]
型幅15m[1]
登録深6m[1]

第五福竜丸(だいごふくりゅうまる、第五福龍丸)は、米国ソ連核兵器開発が急進展した冷戦時代に、アメリカ合衆国1954年3月1日ビキニ環礁で行ったテラー・ウラム型水素爆弾実験場の付近に居合わせたことにより、多量の放射性降下物(死の灰)を浴びた、乗組員23名の遠洋マグロ漁船。無線長久保山愛吉が、被爆から約半年後の9月23日に死亡した。政府調査によれば同時に被曝した船が1422隻あった。
概要

1947年和歌山県東牟婁郡古座町(現在の串本町)でカツオ漁船の第七事代丸(だいななことしろまる、1947年 - 1953年)として進水した。1953年5月に静岡県焼津市マグロ漁船に改造され、第五福竜丸(だいごふくりゅうまる、1953年 - 1956年)に改称した。

1954年3月1日アメリカ国防総省アメリカ原子力委員会が合同でビキニ環礁エニウェトク環礁で行ったキャッスル作戦の6回の水爆実験のうち、1回目の「ブラボー実験」を実施。

第五福竜丸は被爆しながらも3月14日静岡県焼津港に自力で帰還し、同日に船主の妻から乗組員の火傷症状について東京大学医学部放射線科に電話が入り、翌日、乗組員は東大病院を受診した[2]

3月16日、事件はスクープとして新聞にて報じられ、静岡大学の塩川孝信などによる調査が行われた。同日の検査では船体から30メートル離れた場所で放射線を検出したことから、塩川は人家から離れた場所へ係留するよう指示をし、鉄条網が張られた状態で係留された。

核実験当時、危険区域内では第五福竜丸以外の多くの漁船も操業しており、当時の調査では683隻、2万人以上が被爆したとされていたが[3]、水産庁が2015年に開示した文書によれば被爆した船舶数は1423隻、漁獲物を廃棄した船は992隻であった[4]

その後、文部省(現・文部科学省)が第五福竜丸を買い上げ、8月に東京水産大学(現・東京海洋大学)品川岸壁に移される。この後、さらに検査と除染が行われたあとに、三重県伊勢市大湊町強力造船所(現・株式会社ゴーリキ)[5] において改造され、東京水産大学の練習船のはやぶさ丸(1956年 - 1967年)となった。この時代の母港は千葉県館山市館山港であった。
被爆事件久保山愛吉(死の直前)久保山の訃報に泣き崩れる妻と母久保山の死に際し、「もう何も言えません」と語る主治医の熊取敏之(東京大学医学部教授、国立東京第一病院、左)と、それを支える三好和夫徳島大学医学部教授、右)


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