第五海洋丸の遭難
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第五海洋丸の遭難9月17日の明神礁の噴煙
日付1952年昭和27年)9月24日
時間午後0時20分ごろ(UTC+9
場所明神礁ベヨネース列岩東方)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度34分05秒 東経139度35分42秒 / 北緯31.568度 東経139.595度 / 31.568; 139.595座標: 北緯31度34分05秒 東経139度35分42秒 / 北緯31.568度 東経139.595度 / 31.568; 139.595
原因海底火山噴火
死者31名(乗組員全員)
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第五海洋丸の遭難(だいごかいようまるのそうなん)は、1952年昭和27年)9月24日海底火山明神礁の調査を行っていた日本海上保安庁海洋測量船「第五海洋丸」が消息を絶ち、その後発見された漂流物などから、噴火に巻き込まれて沈没したことが判明した海難事故地質学者田山利三郎河田喜代助を含む、乗組員31名全員が犠牲となった[1]

日本の火山研究史上未曾有の悲劇[2]、日本の海洋調査史上最大の悲劇[3]、世界の火山観測史上未曾有の大惨事[4]、世界の測量史上未曾有の大事件[5]などとされ、一般社会にも大きな衝撃を与えた[6][5]
第五海洋丸

第五海洋丸
基本情報
船種
海洋測量船
船籍 日本
運用者.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

 大日本帝国海軍(1942 - 1945)

 海上保安庁(1948? - 1952)

建造所三菱重工業下関造船所
姉妹船第一 - 第六海洋
改名

第五海洋(1942 - 1948?)

第五海洋丸(1948? - 1952)

経歴
竣工1942年昭和17年)7月
最後1952年(昭和27年)9月24日
明神礁の噴火に巻き込まれ沈没
要目
総トン数約200 t
全長34 m
機関方式ディーゼルエンジン
最大速力11.5 kn (21.3 km/h)
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第五海洋丸(だいごかいようまる)は、太平洋戦争中に大日本帝国海軍が建造した6隻の海洋測量船200トン型海洋観測船)の一隻で[7]、当初の名称は「第五海洋」だった[8]1942年昭和17年)7月に三菱重工業下関造船所で竣工し[9][10]、姉妹船として「第一海洋」から「第六海洋」までが存在した[8][7]

もともと、海軍水路部には特設測量艦「第三十六共同丸」や潜水母艦を改造した測量艦「駒橋」が存在した。これらの任務は海岸測量の作業地への班員輸送、作業地沖合の測深などの作業への従事であったほか、戦時中には敵前測量の敢行と速成海図の艦隊への供給などを行っていた。そのため、測量艦とは別に、文官で運営できる水路部専用の海洋観測船の建造が望まれた。こうした経緯から1937年(昭和12年)に建造の構想が立てられ、翌々年には1隻目となる「第一海洋」が竣工している[8]

これら6隻は横須賀海軍基地の水路部に所属し[7]、海象観測や気象観測に従事した[9]。戦争末期には特攻艇「震洋」や小型潜水艇「海龍」から成る第一特攻戦隊の司令艇となった[7]1943年(昭和18年)に第五、第六の2隻は、アリューシャン列島キスカ島撤退作戦に参加し、往復時に気象・海象観測を行っている[8]

1944年(昭和19年)に第四、第五を除く4隻は沈没[8]。終戦後、残った2隻は新たに設立された海上保安庁へ移管され、「第四海洋丸」「第五海洋丸」と改称されて、再び水路部(現・海洋情報部)で海洋測量船としての作業に従事した[7][9][8]

重量は200総トン、全長34メートル。400馬力のディーゼルエンジン1基を備え、最高速力は11.5ノットの鋼鉄船だった[10]
事故の経過
調査の背景

1952年昭和27年)9月17日午前7時15分ごろ、静岡県焼津市の漁船「第十一明神丸」が、ベヨネース列岩東方の海域で、海底火山の噴火を発見した。翌18日早朝には海上保安庁の巡視船「しきね」が現地を確認し、発見報告した船の名前にちなんだ「明神礁」の仮称を付けた[2]

この周辺は有名な漁場でもあるため、水産の面から噴火による影響の調査、また航海保安の面から付近一帯の測深など、調査すべき重要な問題があった。そこで東京水産大学からは「神鷹丸」が、海上保安庁水路部(現・海洋情報部)からは「第五海洋丸」が、それぞれの任務を持って派遣されることとなった[11]

当時水路部部長を務めていた須田皖次は遭難事故後、会う人ごとに「どうして船を出したか」という質問を受けたといい、当時は明神礁の位置が報告によって様々で確定できておらず、付近航行船舶の安全のために一刻も早く明神礁の正確な情報を公表する必要があったこと、調査団派遣の会議場では「決して危険を犯すな。どうせ今後二次三次と探検船を出すから無理をするな」と繰り返し注意をしたという事実と共に、次のように述べている[1]

実は水路部には人種の如何、国籍の不同を問わず一般船舶が日本近海を安心して航海出来るようにしなければならないと云う人類愛に立脚した国際的道義的責任と義務がある。従つて現象が危険であればあるほど一刻も早く危険の実体を調査して公表しなければならない。(中略)われわれは物好きや単なる科学的研究の為めに船を出したのではない。全く水路部本来の業務を完遂する為めである。 ? 須田皖次「第五海洋丸遭難の科学的批判」[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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