第二神殿
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イスラエル博物館内の第二神殿の模型(ヘロデ大王による修繕後、ヘロデ神殿)

第二神殿(だいにしんでん)は、紀元前516年から紀元後70年までの間エルサレム神殿の丘に建っていたユダヤ人の重要な神殿(エルサレム神殿)である。それは紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊されたソロモン第一神殿に代わって建設された。
歴史

紀元前538年にアケメネス朝ペルシャの王位を継承したキュロス2世は、エルサレム市街地の復興とエルサレム神殿の再建を行った人物の有力な候補である[1]聖書によると、ユダヤ人がキュロス2世の命令によってバビロン捕囚から解放されエルサレムに戻った際、ユダヤ人たちがバビロンに捕囚されていたおよそ70年の間破壊されたまま放置されていたソロモンの第一神殿があった場所で神殿の建設が始まった[2][3][4]。ユダヤ人が捕囚されて空白となったエルサレムに別の場所から移住してきた他民族が神殿の建設に反対したため比較的短期間の休止があったものの[5]、紀元前521年、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世の下で神殿の建設は再開され[6]、紀元前517もしくは518年、ダレイオス1世の統治6年目の間に完成し[7]、神殿で奉献式が行われた[8]

ローマ帝国皇帝ティトゥスの下で西暦66年にユダヤ戦争を始め、ユダヤ人の敗北が決定的になった西暦70年のエルサレム包囲戦においてエルサレムと第二神殿は破壊された。以後エルサレム神殿は再建されることはなかった。西の壁の下部はヘロデ神殿の遺構を残す数少ない部分であり、嘆きの壁として現存している[9]

古典的なラビ文学は第二神殿が420年間立っていたと述べられており、2世紀に書かれた年代誌であるen:Seder Olam Rabbahに基くと非宗教的な推定よりも166年遅い(en:Missing years (Jewish calendar))紀元前350年(3408 AM(創世紀元世界創造紀元の一種))に建設されて70年 (3829 AM)に破壊されたとされる[10]

紀元前20年から19年の辺り[11]ヘロデ大王が第二神殿の再建と大拡張工事に着手し、大王没後のAD62-64年頃に完成した神殿はヘロデ神殿と称される。
神殿の再建ヘブライ語で「放浪の場所へ(To the Trumpeting Place)」と銘が打たれた石(2.43x1 メートル)。ベンジャミン・メイザー(英語版)によって、神殿の丘の南側下部で発掘され、第二神殿の一部であると考えられている。

聖書の記述に基くと、バビロン捕囚から帰還した後、70年前のユダ王国の滅亡後荒廃していたユダヤ属州(英語版)を立て直すための準備はすぐに行われた。帰還者たちは42,360人の団体を作り[12]、ユーフラテスの川岸からエルサレムまでの長く陰惨な4カ月の旅を終えた。彼らは強い宗教的な衝動によって彼らの全ての出来事で活気に満ちており、したがって彼らのはじめの懸念の1つは、彼らの滅ぼされた神殿を再建し、コルバン(英語版)として知られる生贄の儀式を復活させることによって古来からの崇拝の建物を復旧させることだった。

総督であったゼルバベルの勧誘において、61,000ダリクの金と5,000ミナの銀および祭司の衣服100着が神殿再建の工事の為に寄付された[13]。彼らは、初めに建設し神への捧げものを奉じていた第一神殿が立っていたのと同じ位置に第二神殿を築こうとし、古い神殿の場所を占有していた瓦礫を片付けた。そして、紀元前535年の建設を開始してから2年2か月目に、第二神殿の土台の建設が始まった。この大きな運動において広い関心が感じられたが、傍観者たちには複雑な心境で見られていた[14][15]

サマリア人はこの仕事において協力の提案を行った。しかし、ゼルバベルおよび宗教的指導者達は、ユダヤ人自身の手によって協力なしに神殿を作り上げなければならないと考え、協力提案の全てを断った[16]。すぐにユダヤ人に関する悪評が広まった。エズラ記の第4章5節によると、サマリア人は彼らの目標を妨げようとし、その仕事が続行不能となった結果エクバタナおよびスーサへと使者を送った。

その7年後、ユダヤ人の祖国への帰還と神殿の再建を認めたキュロス2世が死去し[3]、彼の息子のカンビュセス2世が跡を継いだ。彼の死によって「偽スメルディス」は約7から8か月の間王位を占有し、その後紀元前522年にダレイオス1世がペルシャの王となった。ダレイオス1世の統治2年目に神殿を再建する仕事は再開され、預言者ハガイゼカリヤによる真剣な助言と警告による激励のもとで完成に持ち込んだ[17]。捕囚から帰還してから20年以上後の紀元前516年の春には奉献の準備ができていた。神殿はダレイオス1世の統治6年目のアダルの月(英語版)の3日に完成した[7]が、それはユダヤがもはや独立した民族ではなく外国の影響を受けているということを明白にした。ハガイ書には、第二神殿の栄光が第一神殿のそれよりも大きくなるという預言が含まれている[18]ローマにあるティトゥスの凱旋門の内壁に書かれた、神殿からの戦利品を運ぶローマ軍の凱旋式

聖書の記述によると、聖遺物の一部は第一神殿の破壊の後失われ、第二神殿では以下の物品が欠如していた[19]

契約の箱モーセの十戒の書かれた石版、マナの壷、アロンの杖を含む)

ウリムとトンミム(英語版)(さばきの胸当(英語版)を含む)

聖油(英語版)

神聖な炎

第二神殿において至聖所 (Kodesh Hakodashim)は、第一神殿のように壁で切り離されるのではなくカーテンで仕切られた。しかし、ユダヤ神殿(英語版)のように第二神殿には以下のものが含まれていた。

en:Hekhalのためのメノーラー(金の燭台)

供えのパン(英語版)のテーブル

金の香炉を含む金の香壇

第二神殿もまた、バビロニア人に取られたがキュロス2世によって回復された多くの金の祭具を含む[20]。しかし、ユダヤ人の伝統によれば第二神殿には、はじめに存在していたシェキナおよび聖霊 (ユダヤ教)(英語版)が不足していた。
マカバイによる奪回

アレクサンドロス3世によるユダヤ征服から、シリアの王アンティオコス3世がパニオンの戦いでエジプトのプトレマイオス5世を破った紀元前200年までの間、ユダヤはプトレマイオス朝エジプトの一部であった[21]。この戦いの後ユダヤはセレウコス朝シリアの一部となった。エルサレムの第二神殿が略奪され礼拝が止まったとき、ユダヤ教は実質的に非合法化された。紀元前167年、アンティオコス3世は神殿にゼウスへの祭壇を築くよう要請した。彼はまた割礼を禁止し、神殿の祭壇で豚を生贄に捧げるよう命令した[22]

セレコウス朝に対するマカバイ戦争の後に第二神殿は奪回され、ユダヤ人王朝であるハスモン朝の宗教的な柱となり、ユダヤ人の祝日であるハヌカーと文化的に結び付いた。
ヘロデ神殿イスラエル博物館にあるヘロデ神殿の模型

ヘロデ王の下での神殿の再建は神殿の丘の大規模な拡張から始まった。宗教的な崇拝と神殿での儀式は神殿の再建が行われる中、続けられた[23]ユダヤ属州の大規模な反乱(ユダヤ戦争)の後、70年のエルサレム攻囲戦においてティトゥス率いるローマ軍団によって神殿は破壊された。これを記した最も完全な古代の記述はヨセフスユダヤ戦記である。後のローマの属州総督は神殿の遺構を使って宮殿やユピテルの神殿、ビザンティン教会を築いた。


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